Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分を華麗にスルーする

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【はじめに】

ほーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

感情を置いておくだとか、思考を置いておくってねー。

何度聞いてもよくわからーん。
てか、うまくいかーん。
ってな質問を山程いただいております。
ありがとうございます。

まーねー。
この話のややこしいところは、思考や感情をなんとかしようとしちゃうと途端に巻き込まれるっていうことだったりするんですよね。

だから、なんとかするために置こうとしても、
これまた巻き込まれちゃうっていうね。
にっちもさっちもいかんことになってしまうんです。

というわけで、そのまんまにしておくんですよ〜。
ってな表現になってしまうんですが、これって取りようによっては、
そのまんまということは、なんとかしようとしてるのなら、なんとかしようとしたら良いんだよね。
だってそのままだし。
じゃあ、なんとかしようとしてるんだけど、やっぱりうまく行かないんですけど、、、。

ってね。
そんなふうになっちゃうんですよね。

で、なんとかしようとしなくて良いんですよ〜。それがそのままっす。
って聞くと、
なんとかしないようにしちゃうっていうね。

この辺のループに引っかかっちゃうわけです。

 

【置いておこうとするというジレンマ】

これってもうね。
コップを念力で動かそうとしてるのと同じようなものでしてね〜。
そりゃーうまくは行かないわけです。

だから、置いておくしかないんですが、
思考や感情ってね。
置くにしても、そもそも形あるものじゃありませんからね。
置くに置けないわけなんです。

この辺もまた、一つのジレンマですよね。

となるともう、華麗にスルーするしかないんですよね。

【スルーのジレンマ】

でも、スルーしようとしても、思考や感情をスルーしようとすると、
これまた、なかなかうまく行かないんです。
なぜかというと、思考を見ている自分を作っちゃうからなんですよね。
そして、その自分が思考をスルーしようとするんですが、
その自分もまた一つの思考なので、やっぱりどこまで言っても堂々巡りになってしまう。
っていうね。
そんなジレンマもあったりするんですよね。
では、なぜ、思考や感情をスルーできないのか?
といいますとね。

それを自分だと思ってるからなんですよね。

そして、僕らはこの自分を無視したりスルーしたりすることはタブーである。
って思い込んでいるんです。

自分だけはしっかりと相手をしなければならないってね。
そう思い込んでるんですよね。

だから、置いておくこともできず、スルーすることもできなかったりするわけです。

【自分を華麗にスルー】

なので、これをスルーしたり置いておくための準備運動として、そのまんまの自分を許してみる。ということをオススメしたりするわけです。
許されるということは、どうにかしなくても良いってなるからなんですね。

ただ、もう一つコツを紹介するとしたなら、思考や感情をなんとか鎮めようとするよりは、
自分を思いっきりスルーしてやる。

というコツです。

自分って別にスルーしても全然大丈夫なんです。

この自分こそが、思考や感情の複合体なんですよね。
そして、それは実在するものじゃなく、一種の働きですのでね。
そもそも、持っておくことも取っておくこともできないものなんですよね。

今まで、無視されたことのない自分はちょっと面食らうかも知れませんが、
思いっきり自分をスルーしてやると、なぜかそれが可能であることを発見できるかも知れません。

【空白にダイブする】

思考は必ずどんなものにも当事者が存在するという一つの概念を持っておりますので、
発見するということは、それを発見したのは誰??
ってな思考が入り込んでくるんですけどね。
そんな疑問も思いっきりスルーしてやっていいんです。

自分スルーが極まってきますと、そこに空白があらわれてきます。
そこにダイブしてやるんです。

そのうち、この空白の静寂と喧騒も融合していくんですけどね。
それが色と空は区別なく一つになる。っていうかそもそも一つだと知る事になっていくわけですが、これ以上は言葉の限界になってきますので、この辺でやめておきます。

さ、ガツンとダイブしてやりましょう。

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