Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

平凡さが輝き出すとき

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【はじめに】

ほい。
おはようございます。
タクさんです。

ま、みなさんもいろんなピンチッ!を体験されてきているかもしれません。
僕もね〜。
なんだかんだといろんなピンチがあったような気がしますが、
なんとかなってはきています。

まーでも、生きてる限りはピンチは起こるときには起こるもんですよね。
だから、僕らはピンチに備えておかねばならないって思ったりもするわけですが、
備えようとすればするほど、その備えは足りなくなるっていうね。

そんなジレンマもあったりするわけです。

まー、どんなにあがいたところで、出来ることしか出来ないので、
あとはノホホンとしてりゃ良いんじゃないかな?
って思う今日このごろです。

 

【自分は平凡であってはならないという錯覚】

ま、僕らは周りに脅威があったり、または驚異になるかもしれないものがあったりすると、それに打ち勝つためには自分は強くあらねばならないと思うわけですね。

もちろん、これは錯覚なんですが、思考としてはとても論理的であり、そうあるべきだと固く信じているわけです。

だから、自分は平凡であってはならない。
という思いを持ってたりするんですよね〜。

だから、スキあらば自分は平凡ではない何者かであろうとしますし、
そして、そうであると信じるに足る証拠を集めたがったりします。
また、そう信じ続けるために、そうであるように演じたりもするわけですね。

ちなみに、恐怖心が強いほどに、特別な自分を演じようとする度合いも強くなるわけです。ですが、そうすればそうするほどしんどくなったりもするんですよね。

なぜなら、そうするほどにこの恐怖心を認めることになっちゃうからです。
この恐怖心は劣等感でもあるわけですが、この劣等感こそが錯覚なんですよね。

【悟りは平凡への目覚め】

悟りや目覚めを求める経緯にも、
なにかから自分を守るモノとして求め始めた。
という方もおられるかもしれません。

確かに、悟りや目覚めはある種の脅威から解放されますし、
劣等感から特別な自分を演じるなんてことからも解放されるわけですが、
それは、自分を守るものとして悟りが機能するからというわけではないんです。

むしろ、劣等感の嘘さが見抜かれるのと、脅威の錯覚が見抜かれるということだけなんですよね。

そして、それは、自分を覆う鎧があると発見できないというジレンマもあったりするわけです。

【平凡さが輝き出すとき】

ちょっと言い回しがややこしくなってきましたね。
要するに、私というものが究極の平凡の中に叩き込まれ、それに溶け込むとき、
あー、自分はそのまんまで良かったんだ。ということを知るというわけですね。

特別さというのは、ただの夢であって、
平凡だと見逃していた「今」にこそ、すべての輝きがあったことを再発見するというわけです。

再発見とはどういうことか?
といいますとね。
もともとこの世界になんの問題も見出していなかったことを思い出す。
ということかもしれません。

僕らは、生まれた瞬間から、この世界に驚異を感じていたわけではなく、
そう聞いたり教わったりしたからそう思いはじめたことを思い出すというわけです。

今のままの私は、もしかしたらどうにも頼りなく感じるかもしれません。
さらには、今までに手に入れた自分の鎧を脱ぐのはとても怖く感じたりもするんですけどね。
その鎧を脱いだときに気づくのは、その鎧は砂上の楼閣のように、あるように見えてなんの力も無いものだったんです。

そして、そんなじゃまなものを通さずに目の前の平凡さをそのまんまに観ていると、
この平凡さが輝き出すんです。

 

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