【はじめに】
ほい。
オリンピックは開会式だけでもみようかなぁって思ってたんですが、
すっかり中途半端な時間に熟睡してしまっており見逃したタクさんです。
まー、僕はあまりスポーツ観戦っていうのは興味がなくてですね〜。
ただ、ボクシングは好きなんですけどね!
なので、多分そんなにみないと思うんですけどね〜。
好きな方なら面白いんでしょうね。
さてさて、話はぐっと変わりますが、
イヤーな気持ちってあるじゃないですか。
あれ、イヤですよね。
ちなみにね。
俺ってグレイト!俺って素晴らしい!
って思ってる人というのは、あまりイヤーな気持ちにならないんだそうです。
もちろん、うつ病とも無縁です。
これは、こうもとらえられます。
つまり、
嫌な気持ちやうつ気分にさいなまれるのは、
自己評価が低いからというわけですね。
というわけで、今日はそんな自己評価のウソについて書いてみたいと思います。
【自己評価なんて全部ウソ】
自己評価が不当に低いと、あれこれと苦悩が増えます。
自己評価が低いということは、自己肯定感が少ないとも言えますよね。
肯定できるものがないから評価が低くなってしまう。
つまりは、ここで自己肯定感を上げるにはどうすればいいか?
みたいなね。
そういった話になりがちです。
一見、これって筋が通っているようには見えます。
だから、みんなあれこれと自己肯定感をなんとかかんとかあげようとするじゃないですか。
SNSでのマウントの取り合いもその一例かもしれませんね。
自己評価が低い職場なんかだと、マウントの取り合いが熾烈だったりします。
ブラック企業なんかでは、社員の自己評価を踏みにじることによって、社内でマウントの取り合いをさせるように仕向けてる会社なんかもありますからねぇ。
そうやって社員を奴隷化しているわけですが、なぜそうやって奴隷化されてしまうのか?というと、そもそも自分が自己評価の奴隷になっているからなんです。
そもそも、どんな評価であれ、この自己評価。これが間違っている可能性があるんです。
だから、自己肯定感を持ってこの評価をどうにかしようとすること自体が的外れなんですよねー。
【そもそも自分に評価は必要ない】
そもそもね。
自分に評価って必要ないんです。
評価は思考で行われます。
そして、この思考というのは比較の概念によって、元々は存在しない分離を行っているんです。
この思考の中の比較の概念の中に「自分」というパーツも存在するわけです。
だから、思考は自己を評価することができているわけですが、
この「自分」というパーツって、そもそも「自分」であるはずがないんです。
なぜなら、もし、自分が思考しているはずなら、思考はあくまでも自分の従属であるはずですよね。
その従属の立場にある思考が、自分を支配しているのだとすると、その自分はニセモノなんです。
【思考の中にいる自分はニセの自分である】
つまりね。
本当の自分は思考を超えたものであるはずなんですよね。
なぜなら、思考は自分の支配者ではないからです。
となりますと、自分とは思考を超えたもの。思考を超越したものということになりますね。
いわゆる思考を超えた大いなる存在。これが自分だというわけです。
思考を超えているので、定義はできません。
だから、なんでも無いもの。これが自分なわけです。
なんでも無いものとは、価値がないということではなく、価値というものさしを超えたものということですね。
この本来の自分に立ち返る時、自己の評価というものに振り回されることは無いんです。
なので、もし、思考の中に自己評価が現れたとしたら、
あ、その「自分」って思考が作った偽の自分なんだ!ということなんです。
この偽の自分こそがエゴであり、自我ちゃんなんですね。
これは、無いものをあるとしている幻想のようなものなんです。
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