Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

物語には物語の設定がある。この設定に価値の差はない

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【はじめに】

ほい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

たまにねー。
自分と意見が違う人に対してものすごーく攻撃的になる人っているんですけどねー。
意見が違うっていうのは、別に悪いことでもなけりゃ、意見が一緒だから仲間ってのも変なことだなーって思うんですよねー。

意見とか信念と自分という概念が同化しちゃってると、
意見が違う=自分が否定された!
みたいなね。
そんな錯覚から、攻撃的な衝動が出てきちゃってるんじゃないかな?
って思うんです。

私というものは存在していないんですが、存在していないからこそ、
いろんなものに、私という概念はペタってくっつくんです。

そして、この私が損なわれる!と感じた時に、
僕らは恐怖を感じるわけですね。

この恐怖が、怒りとなって表現されたり、不安となって表現されたりするわけです。
この表現っていうのは、防衛本能なんですけどね。

この防衛本能が変にバグって表現されている場合がよくよくあるんです。

意見が違うから、自分が否定された!
このまま自分が否定されたら、自分は死んでしまう!!

みたいなね。
そんな錯覚から防衛本能がバグっちゃうんですねー。

 

【同じ土俵では、どっちもどっち】

特にネットとかSNS上とかで、まるで意見の違うやつは悪魔だ!とでも言わんばかりの応酬がなされてたりもしますよねー。
そういう言葉ってね。文字の上にも感情が乗っかっちゃってるんで、その感情がうつっちゃったりもしてね。
結構エキスパートしちゃったりもするんです。
まーでも、こういう争いって、その争いに乗っかっちゃった時点で、双方どちらが正しいっていうよりは、同じ土俵に上がってるということで、どっちもどっちなんですよね。
同類だからこそ争いが起きちゃうってことでもあるんです。

どうしても乗っかっちゃうって場合はね。
「あー、うつっちゃってるなー」ってね。
冷静に分析してみるとあまり乗っからずにすみますのでオススメです。

【意見の違いは気にすることではない】

まー、ネット上で変に絡んでくる人っていうのは、あまり相手にしちゃダメですね。
道端で、いきなり文句言ってくる人とかいたら危ないじゃないですか。
あれと同じようなものですからねぇ。
ただ、自分の意見が否定されたからといって、その人は別に敵ではありませんのでね。
「へー。あなたはそう思ってるんだね。私は違うけど。」
で終わりなんですよね。

これは、野球で言うと、阪神が好き。巨人が好き。
というのと一緒です。

これを、阪神が好きなやつは、敗北者である!バカで社会人として失格。
みたいにね。
変に突っかかってこられたなら、
うわー変な人きたー!ってね。
距離を取らなきゃヤバイですもんね。

【防衛反応をいたわってあげる】

結局、人の考え方の違いっていうのは、
ストーリーを作る上での土台。つまりは物語設定が違うということだけなんですよね。
だから、各々のストーリーを持ち寄っても、全然接点がなくて噛み合わないなんてことはありますが、それはストーリーを形作る土台が違うだけなんです。
そしてね。
どの物語設定が正しいのか?なんてのはありません。
例えが古いですが、
北斗の拳とキャプテン翼のどちらが物語として正しいのか?
なーんてね。
ないじゃないですか。

どちらも等しくただの物語ですからねー。
だから、価値の差というものも存在しないんです。

ただ、物語に、自分という観念を強く同化させることで、
その物語が正しくなると困る。
なーんて思い込みが起こっちゃったりするわけです。

そんな時はね。
そうやって働いてくれている防衛本能に対して、
「ありがとねー!ごくろうさんだねー!」
ってね。
声をかけてあげると、その観念は喜んでくれます。
そして、この観念が許された時、強い同化はほぐれていくんです。

 

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