Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

RE:楽園追放

f:id:takuteto:20210311073920j:plain

はじめに

はーい。
おはようございます。
タクさんです。

いやー、Twitterの方にね。
昔のブログの記事についての感想をもらったんですけどねー。

もうねー。
この今読んでいただいているブログじゃなくて、その前にやっていたブログの記事で、
10年くらい前のものなんですけどね。
その記事の感想を今もらえるってねー。
嬉しいですねー。
なんかありがたいです。

というわけでね。
普段は自分が書いた記事を改めて読むことってあんまりないんですが、
その記事を改めて読んでみると、なかなか面白かったので、
今日はその記事の転載です。

え!!手抜きじゃないよ!手抜きじゃないよ!

まーこのお話はねー。
なんていうか、ほら、自我ちゃんってついつい悪者だと思われがちじゃないですか。
手放さなきゃならないもの。
みたいなね。

でもねー。
もっと素敵なもんなんですよね。

オギャーって生まれた赤ん坊がね。
この自我ちゃんと出会ってねー。
そして、この自我ちゃんに夢中になったんですよね。

ま、そんなことが書いてある記事でございます。

よかったら、みなさんも、まだ自我が芽生えていないあの頃の感覚を思い出してもらえれば幸いです。

ではでは、よろしくどうぞー

 

楽園追放

僕は、なに不自由ない楽園に住んでいた。
なんの不自由もない、望みはすべて叶えられ、欲しいものは何でも手に入る。
そこには比較は存在しない。何も不自由がないところでは、比較は存在できないのだ。
そして、分離もない。
分離は、不自由がなく何でも思い通りの世界には存在することができない。
分離や比較は、不自由があって始めて存在できる。
水があって魚が泳げるのと同じ具合に。

その楽園に暮らしている間は、個性も存在できない。個性の養分となる比較と分離がないからだ。

その楽園ににいる間は、不自由がないため、自由もない。
不自由がないから、自由の認識ができないのだ。

この楽園には、何でもある、その反面、何もない。
何でもある世界では、無い物がないため、全てがあることを認識できない。

この楽園は、ひとつのエネルギーとして存在している。

そして、そのエネルギーはあらゆるものをその喜びのエネルギーで表現しているが、
分離がないから比較がない、一つのエネルギーなので、その喜びの表現を確認する術がない。

そこで、ふと考えた。
「僕はいったい何物なのだろう?」

その瞬間、世界が構成された。
すべての望みが叶う世界で、自分の正体を知りたいと思った瞬間、その望みが叶えられたのだ。
知りたいという望みは、分離を作った。
分離がないと、自分を見ることができないからだ。
そして、分離は比較を生み出した。

一つだったものが二つに分かれた。
知りたいと要求したからだ。

知るためには、楽園の中には居られない。
外から楽園を発見しないと知ることができないからだ。

そして、知るには、知らないを経験しなければならない。
知らないがあって、始めて「知る」ことができるのだから。

そして、一瞬にして、分離世界が創り出された。
僕はとても祝福に満ちていた!
最高に喜びに満ちていた!

だって、始めて自分自身の喜びに満ちたエネルギーを知ることが出来るのだから。
こんなすごい経験ができるなんて!もの凄いことじゃないか!

この知る体験ができるのは、自我に入り込んだものだけが得られる特権なのだ!
居残り組のエネルギーは、サポート役として僕をサポートしてくれることを快諾してくれた。
そしてサポートをしながら、僕を媒介としてこの体験を見ることをとても楽しみにしてくれているようだ。

さぁ!始まるぞ!いくぞ!
期待に胸がいっぱいになりながら、僕は分離の世界に入って行った。

そして、僕の冒険が始まった。

 

takuteto.hatenablog.com

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!