Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探求の終わりと景色のお話

f:id:takuteto:20210116221355j:plain

はじめに

ほい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
ご機嫌様でございますか?

なーんにもない中にただ浸ってみる。
これはとーっても大きなリラックスになります。
そして、日々がご機嫌であっても、
ご機嫌が斜めであっても、

どれもまた、素晴らしいよねー。

って感じさせてくれるんですよねー。

雨もよければ晴れも良しなんです。
それらは車窓から見える景色のようなものです。

景色とは、景(見渡せるありさま)に色をつけるという字で表現されています。

景色の色は、多彩であるほど素晴らしいんですよねー。

そんな素晴らしさを知っているからこそ、
僕らは、いろんな色で世界を染め上げようとしているのかもしれませんね。

 

景色は色付けられた世界

僕らが見ている景色は、色づけされた世界です。
この色づけがあるからこそ、僕らは景色を認識できるわけで、色がないと景色にはなりません。
この色というのは、別に色彩のことではありません。
この色は観念を通して色付けられたイメージです。

あらゆる全ての対象は、この観念を通して見られています。

そして、観念を通らないものというものも、目の前にはたくさんあるんですが、
それらは、目に見えていても、見えていない。
あるんだけど気づいていない。
というものになるんですよねー。

つまり僕らが見ている景色は、観念そのものなんです。

観念は言語化されることによってより明確化される

観念は、言語化されるほどにより明確化されます。
よくわからない花を見ている時は、
「あ、花だなー」
って感じですが、
「これはチューリップといいます!」
って聞くと、
「お!チューリップが咲いてる!」
ってなるわけです。

ちなみに、これは、実際に見えている花をチューリップという観念に置き換えてしまいますので、観念が言語化されて明確になればなるほど、目の前のありのままの景色は見えなくなってしまうんですよね。

見えているのに、見えなくなっちゃうというわけです。

「自分」もまた一つの対象である

そうやって、みえている景色は、全て対象です。
この対象に意識を奪われれば奪われるほど、みている者という意識は希薄になります。

ちなみに、みている者というのは、「自分」ではありません。

実は、「自分」もまた、一つの対象なんです。

そして、身体も思いも感情も、心さえも、ぜーんぶ対象なんですよね。

これらの対象もまた、観念というフィルターを通してみられているんです。

探求の終わり

神社なんかにいくと、手を合わせて拝むところがあるじゃないですか。
あそこには鏡が飾られています。
これはまさに、神はみえている対象の中にあるのではなく、みている者こそが神なんだよ。
ってな意味が隠されているんじゃないかなーって思うんですよね。
そして、このみている者というのは、なんでもない者なんです。

僕らが何かを特定するのは、全て観念というフィルターによって特定されているものであって、それらは全て色付けられた景色なんですね。

それらをみている「なんでもないもの」

これこそが、気づきの意識そのものなんです。

そしてね。
ここからがちょっと不思議なんですが、

この気づきの意識と、見えている景色。

これって、一つなんですよね。

主体と対象。これらが融合する時、
ああ、まさにコレなんだ!
明確に悟るんです。
そして、対象の中に探すものはないことを知るんです。
これが、探求の終わりというわけなんですよねん♪

▼僕のfacebookページはこちら。よかったら「いいね」してね!
コメントなどでつながりましょ〜!