Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

言葉によらない「知」

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。

好きな調味料はワサビ醤油のタクさんです。

ソース派?しょうゆ派?

なーんて論争が昔ありましたよね。

さてさて、
僕らの思考というものは、具体性を好みます。
具体的であればあるほど、なるほど!となるわけです。

だから、僕らはつまりどういうことなの?
ということを探し求めるわけですねー。

ですが、一瞥で垣間見れる世界は、この具体性は通用しないんですね。

なので、
それは言葉を超えたものである。
知識ではなく智恵なのである。

みたいなね。
そんな言い方をされるわけです。

僕らが、ここで翻弄される理由は、
言葉を超えたものを具体性に落とし込もうとするからだったりもするんです。

だから、「私はいない」を理解しようとすると混乱しちゃうわけなんです。

また、思考という働きは幻想である。
と聞くと、まるで思考には価値がないように思えてしまうのも、
これまた、思考のクセでしてねー。

幻想ではなく真実を求めちゃうわけなんですが、
その道の途中で、

全てはしょせん、幻想なんだよねー。
ってね。
思考を悪者とまでは言わないまでも、価値のないものに落とし込んじゃう。
なーんてのもね。
また、ちょっと違う話なんですよねー。

この辺ってややこしいですよね。

 

なぜややこしいのか?

では、なぜややこしいのか?と言いますとね。
これもやっぱり、「コレ」をどうしても具体性に落とし込もうとしちゃうからなんです。

ネットなんかでも、この情報のソースは?確かなソースはあるの?
ないなら、話にならない!

みたいな論法が幅をきかせておりますよね。

これもまた、より具体的な話の方が価値があるという、
ひとつの価値観がまかり通っているからなんだと思います。

思考で組み立てることがより正しいわけでもなければ、
「これ」の話がより正しいわけでもありません。

ただただ、なんでもないものが在るということを知るだけなんですねー。

なんでもないもの

なんでもないものとは、まさに全てです。
僕らがいろんなものを認識できちゃうのも、もともと、それがなんでもないものであるからこそ!なんですねー。

そして、なんでもないものを知るということは、具体的な納得以上の納得なんです。
なぜなら、理由や材料を必要としない納得だからなんです。

そして、このなんでもないものを知ることは、思考の世界からの解放でもあります。
あらゆるものがクリアになるんですよね。

言葉によらない「知」なんです。

生きているのは私ではなく、全てだったんです。

私はいないのではなく、いるでもいないでもない!だったんです。

 

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