Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

目の前の世界は全て新しいおニューの世界です。

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はじめに

ほーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさん。
常におニューな毎日を満喫しておられますでしょうか?

世界ってね。
常におニューなんですよね。

常に新しいんです。
ずーっと新しいんですよね。

つまりは古いものなんて存在しないんですよ。

もしかしたら、古さなんていう概念を持っているのって人間だけなんじゃないのか?
って思っております。
結構この古さというのに僕らは騙されちゃったりしますよね。

でも、この世に古いものなんて存在しないんです。
常に新しいんです。

 

古さという概念はどこから?

古さの概念。
まーこれって、年とったなー。とか老いたなー。
といったような思いとかね。
愛着のようなものもそうですね。
いい意味の愛着であれば、いいんですが、
もう手放してもいいのに、なかなか手放せない腐れ縁のような愛着もありますよね。
これは、モノだけじゃなく、考え方、在り方なんかにもあります。

後悔もまたそうですね。

まーこういった概念はね。
どこからきとるねん?
ってことなんですが、
もちろんこれは記憶によるものです。
記憶があって初めて古いという概念が現れますからね。

ですが、記憶だけだと、古さは成立しません。
古さというのはこの記憶ともう一個、別の概念がくっついたときに起こってくるものなんです。

でねー。
この別の概念。
こいつがねー。
いっつも僕らを危うくさせるんですよ。

そう。
この別の概念というものが、比較の概念なんです。

この比較によって、あの時よりも良くなった。
あの時よりも悪くなった。
といった思いを生み出すんです。

すると途端に、今、目の前にあるおニューさが消え去ってしまうんですよね。

比較は自分を危うくさせる

ああ、年を取った。もうだめだ!
あの時はあんなにうまくいっていたのに、今はもうだめだ!
みたいなね。
そういうストーリーを作るのもこれまた比較の概念なんです。
そしてこの比較の概念がねー。
自分に突き刺さってくるんですよね。
いやいや、
実際には刺さってないんですよ。
ですが、
だめだ!ヤバイ!という演出をしちゃうんですよね。
そして、それを受けた自分が危機感を感じるんです。

この危機感の正体は死の恐怖です。
この死の恐怖が、妙な体の反応や悩みや迷いや苦悩を生み出すんです。

比較は単なる記号でしかない

そもそもね。
比較というのは、なんていうか単なる記号のようなもので、
良いとか悪いとか、正解とか間違いとかではありません。

赤か白か?

という単なる分類の記号のようなものでしかないんです。
わざわざ死の恐怖まで発展させるようなものじゃないんですよね。

また、比較によって起こっている死の恐怖って、ありもしない幻想なんです。

ま、とはいえね。
起こるじゃないですか。恐怖感というものは。
それはもう生理的なものですのでね。起こるのはいいんです。
ただこれって、幻想として起こっておりますのでね。

うはー!めっちゃ怖い夢みてるやん!
ってな感じでね。
気づいてあげればいいんです。
そしてね。
この恐怖感って、実際に体にダメージを与えておりますからね。
恐怖のストーリーに対してあれこれと考えるんじゃなくて、
このダメージをまずは癒してあげればいいんです。

目の前の世界は全て新しいおニューの世界です。
生き生きとした新しさ。これが真実なんです。

この新しさ。これこそがまさに奇跡なんです。
奇跡とは記憶の想像を超えるものなんですよね。

恐怖感の幻想から目覚めるとき、そのありのままの世界が蘇るんです。

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