Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

絶望と希望。そのどちらも愛らしい。

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はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさん。
四苦八苦されておりますか?

お釈迦さんの話ではねー。
人生は苦そのもので、さらには寂しいものである。
なんてねー。言われていて、
「そんなの夢も希望もないジャーン!」
って思ったりもするものです。

でもね。
もし、お釈迦さんのように何かしらに悟れば、
この苦から解放されるのか?
もうここにしか希望はないのか?

ってね。
そんな思いで、探究の道に入られる方も多いと思います。

ちなみに、僕もそのクチで、
ダメだ!もう絶望的だ!
巷で言われている悟りを手に入れなければ、
もう人生に希望はない。

という思いでねー。
探究に入りました。

まーそんなわけで、いろんな人に話を聞きにいき、
あれをすれば良いと言われればやり、
これを学べば良いと言われれば学びとね。
やっていたわけです。

もう、自分の人生を打開するにはそれしかない。
これがダメならもう死ぬしかない。

というね。
そんな思いからでした。

作られるだけの時間をつくり、
それこそ、限度額いっぱいまでお金を引っ張り、
貯金ももちろんすべて吐き出しましてね。

これが尽きるまでに、手に入れられなければ、
もう死ぬしかない。

って思ってやっていたんですよねー。

結果どうなったか?
と言いますとねー。

無事、貯金も底をつき、悟りなんていうものは手に入れられないまま
「はい。終了〜!」
となったわけです。

「うそーん。これだけやったのに、どこにも悟りなんてないの?」
「どうすんの???死ぬしかないじゃん」
ってね。そん感じで、絶望したんですよね。

そこでね。
失ったんです。持ちたいと思っていたもの。持っていると思っていたもの。

それを失ったんですよね。
でも、実は失ってなんていなくて、失うものなんて元々持っていなかったんですよね。

失ったー!ってなったあとに、あれ?何を失ったんだろう?
もしかして、そもそも何も持ってなくね??
って気づいたことがきっかけで、

その後、
いわゆる目覚めの大きな体験をあったり、それもまた違うじゃんってなったりと、
ゴニョゴニョといろいろあったりしたわけですが、

ま、
元々あった当たり前にスコーンと戻ってきたんです。

はいオッケー!ということでね。探究は終わったんですね。

その元々の当たり前とは、言葉で聞いたものや知ったものじゃないんですけどね。
なーんにもとらえずにあるコレってずーっとあったじゃーん。
言葉や定義にしようとするからコレがコレでなくなってるだけじゃーん。
コレはものすごーく当たり前に知ってるコレじゃーん。ってね。
一周回って、当たり前に戻ったわけです。

この当たり前がもう完璧で、完全で、静寂なんです。
はー、うるさいのは頭の中のお喋りだったのね。
音はうるさくないんですよね。

ってことなんですよねー。

今まで手に入れたものなんてないのに何を必死に手に入れようとしておったんだ!って感じです。

苦はね。苦ではなく、エゴはエゴでもないんです。
手に入れてきた判断によって、食わず嫌いが起こってただけなんですね。
体験や思いの食わず嫌いですね。

この食わず嫌いによって苦が演出されているということなんですよね。
ものすごーくシンプルに言えばですけど。

 

人生は苦でよかった

で、何に目覚めたの?何に気づいたの?ってことなんですが、
なんて言いますかねー。
やっぱりなんでもないものなんです。
気づいたんじゃなく、元からあったんです。
そして、人生は苦でよかったんですよね。

僕らはその苦に対して、食べず嫌いになってしまうから
その苦を避けようと右往左往してしまっていたわけです。
そして、苦の仕組みを学ぼうとするわけでして、
この苦の大元には自我ちゃんとかエゴちゃんがあって、
そして、思考と思考の元となる判断があったりするわけです。

で、一所懸命、この自我ちゃんやエゴちゃんをなんとかしようとしたり、
思考の元となる判断に対してテコ入れをしようとしたりしていたわけですねー。

この試みはいずれ全て失敗するんですよね。

僕らはついつい、
考え方が間違っている。
いままでクセの中に悪い考え方をしてしまうクセがある。

何かが間違っているからそれを治せばいいんだ!
って思ってたりするわけですが、
そんなことはないんですよねー。

問題の原因

そもそも思考という働きは、
問題には問題の核があって、
その核を分析し、核を取り除くことによって問題を解決しようとする働きがあるわけでしてね。
皮肉な話なんですが、この働きが働けば働くほど、
問題を問題として現実化し、その核を突き止めようとすればするほどに、
その核があることを自分で自分に言い聞かせることになってしまうわけでしてねー。
だから、自分には問題があるといった思い込みを強く持ってしまうということにもなったりするんですよね。
それで、本来は無い苦をあるものとして扱うわけなんです。

そして、その苦は味わうべきものではないもの。
あってはいけないものにしてしまっているんですよね。

だから、食わず嫌いが定着してしまうんです。

苦を避けようとすることによるジレンマ

苦を避けようとすればするほどに、苦というものは避けなければならないものという定義を色濃く感じてしまっていて、
感じている苦に対して抑圧してしまうという流れが起きているんです。
この抑圧は、自分に対する抑圧となり、より自分を苦しめてしまうっていう構図が出来上がってしまうんです。

その苦を避けるために、何かを求めてしまうなら、その求めは苦があることの証明にもなってしまってね。
求めれば求めるほどに、あってはならないことが起きていることを自身に言い聞かせてしまったりするわけですね。

アメちゃんに表も裏もありません。

例えばね、アメちゃん(大阪ではちゃん付けで呼ぶのが礼儀)をね、なめたりしてますと、
まー当然のことながら美味しいですよね。
この味わいに、裏も表もありません。

苦というものも実は、愛らしさの裏返しでしてね。
味わってみると、そこに表も裏もないんです。

苦はそのまんま、愛らしさそのものなんです。

味わうというのは解釈ではありません。

アメちゃんを味わうのに解釈は必要ありませんよね。

解釈を通さないダイレクトな味わいには良いも悪いもない味わいがあるだけです。

苦というのは愛らしさの裏返しなんです。

避けようとして抑圧されると、それは悩みになってしまうんですが、
あっても良いんだよ。
と自身の中で認められると、その愛らしさがあらわになるんです。

この味わいこそが醍醐味であって、人生はまさに醍醐味の塊なんです。
恐れるものはありません。

全ては愛らしさなんです。

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