Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【ただ在るためのコツ】集中とリラックス

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はじめに

ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

立川談志さんだったかなー。
なんかね。
年を取ることで芸が鈍るみたいなね。
そんな年齢的な壁があるのか?みたいな話で、おっしゃっていたんですが、
「芸が鈍ることはない!」
「ただ、年齢的に集中力が落ちることはあるかもしれない。」
みたいなねー。
そんなことをおっしゃっていた。って話を聞いたことがあるんですけどねー。
談志さんじゃなかったかもしれませんけど。

でも、これって、なるほどなーって感心した覚えがあります。

まー、集中ってね。
二種類あると思うんですよね。

ひとつは緊張感をともなった集中。
そしてもう一つはリラックスした集中です。

緊張感をともなった集中はねー。
たしかに体力が必要なので、年齢の壁はありますね。
僕も、あまり長い間、緊張感を保つことは難しくなってきているような気がします。

ですがリラックスした集中というものがあるんですよね。
いわゆるフローとよばれる感覚です。

こっちの集中は結構苦労なしに長時間続けることができるんです。
僕もリラックスした集中なら10時間くらい簡単に集中し続けることができたりします。

実はリラックスと集中って密接な関係があるんです。

リラックスと集中は一体なんですよね。同じなんです。

ですが、リラックスと緊張は対比しているんですよね。

緊張した集中ではなく、このリラックスした集中は、
リラックスそのものでもあるんです。

 

リラックスした集中

リラックスした集中とはどういうものかというと、あれこれと頭の中の雑音に耳を傾けていない集中です。

明晰さと言ってもいいかもしれませんが、フローと言ってもいいかもしれません。

これっていろんなパターンがありまして、
完全に頭の雑音が消えてスッキリしているんですが、なんか研ぎ澄まされている!
みたいな感じもそうですし、
単純に好きなことに没頭しているというパターンもあります。
はたまた、別に好きなことじゃなくても、何かに没頭している場合もあります。

身近な例でいくと、よく徹夜でマージャンする人っているじゃないですか。
あれも、リラックスした集中。いわゆるフローに近いものがあるかもしれませんね。

僕の場合はゲームもそうですし、デザイン作業もあっという間に時間が経つことがよくあります。

あとは、瞑想の状態もリラックスしていて尚且つ集中している感覚を感じることがよくあります。

座って目をつぶっての瞑想だけじゃなく、単に頭の雑音が一切しない状態になっていることもよくあるんですが、そういう時は、全てが聞こえていてそれでいて聞こえていない。
そんな感覚になっています。

これもまた、リラックスした集中です。

ストレスの集中とリラックスの集中

このリラックスした集中にはいる場合は、まず何かに集中してみるのがコツなんですが、
僕らは集中と聞くとどうしてもストレス主体の集中のことだと思ってしまうパターンがよくあるんです。

たとえば、一点を集中して見ながら瞑想に入る方法とか、マントラを唱えながら瞑想に入る方法があるんですが、この場合、この集中をストレス主体の集中でやろうとしてしまうと、疲れるだけで、なかなかうまくいかなかったりすることもよくあるんです。
ただ、疲れが持たなくなって力が抜けるとうまくいく場合もあるんですが、ストレス主体の集中は基本的に長続きしません。

ですが、リラックスベースの集中は、集中しつつ頭の中の雑音が消えていくんです。
一点を集中して見るというのも、見ることに集中するというよりは、見る以外の雑音を消していくという感覚がリラックス主体の集中に入るコツです。

表裏一体の集中とリラックス

このリラックス主体の集中は、まさに真のリラックスと表裏一体になっております。
なので、まずはこのリラックス主体の集中に入ってみて、最後に残った集中をただ置いておくと、頭の雑音が消えた「ただ在る」が残ります。
そこにただ在ってみるんです。
いわゆる気づきや目覚めのためにできることは、このただ在ってみるしかできることはありません。
在ってみることによって、誰も何もしていないということに気づくんです。
一見、
「誰も何もしていないんだから、ただ在るをしようとするのは矛盾するじゃないかー!」
っていう声も聞こえてきそうですが、この声こそが頭の中の雑音なんですよね。
そんな雑音に耳をかさず、まずはリラックス主体の集中をしてみたらいいんです。
するとあらゆる理解は、勝手に起こってきてくれます。
この場合の理解、気づきとは、

何かを手に入れることによって知るということではなく、

手放されたことによって、
そもそも最初から、何も手に入れたことなんてなかったことを知るということなんです。

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