はじめに
はい。
どーもおはようございます。
散歩大好きタクさんです。
皆さんはどのようなところを散歩されておられますでしょうか?
いいですよね。
散歩。
僕は子供の頃から散歩が好きでしてねー。
学校帰りにも、知らない場所を歩いてみるというのが、
ワクワクするんです。
方向音痴なので、迷っちゃうこともよくあるんですけどね。
なので、仕事でちょっと知らない街なんかにいくと、
よく散歩をします。
ただねー。
ちょっと、不満がありましてねぇ。
昔と比べて、駅前の街の作りがどうも似通ったものになり過ぎてきてるんですよね。
チェーン店も増えてきて、駅前にある店のラインナップが大体似通っておりましてね。
ちょっと個性がなくなってきていて、
どうにも、この場所のオリジナル感というのがあまり感じられなくなっていて、
そこが最近の不満です。
いわゆる街並みの複製ってやつでしょうかねー。
そんなことを感じていたとき、思い出したのが、ちょっと昔の作家で、
永井荷風さんという作家さんです。
彼はラジオが普及してきたことに思いっきり憤りを感じていて、
ラジオの音に苦しめられたんだそうです。
隣の家から、歌謡曲が流れてきたり、街を歩いていても民家からラジオの音が流れてくる。
そのせいで、この場所特有の自然の音がどんどん死んでいった。
自然の音の触覚が失われ、その場にある音が失われることに苛立っていたそうです。
この感覚はねー。
なんとなくちょっとわかるような気がするんですよねー。
僕らってね。
今、この目の前にある感覚と常に同化しているとき、
思考の喧騒から離れ、静寂にあることができるんですけど、
ここにねー。文字や言葉が目に入ってきてしまうと、
そこで一気に思考がフル回転し出してしまうんですよねー。
そして、せっかくの今を失ってしまうんです。
あらゆるものにそもそも名はない
この世のあらゆるものには、そもそも名前は存在していません。
ですが、そこに名前をつけた途端、僕らは目の前のそのものの存在を見ることをやめて、
名前につけられた意味の方を見てしまうんです。
そして、この意味に対して、頭の中で整合性をつけていくっていう活動がはじまってしまうんですねー。
なので、わからないことに遭遇すると、延々と頭の中で、
「なぜそうなった??」
と問い続けてしまう。
なんてクセがあるんです。
電車なんかで、普通におしゃべりするのは迷惑行為とはされていないのに、
携帯電話が迷惑だとされているのは、相手が何をいっているのかわからないから、
気が散ってしまうために、迷惑だとされている。
なんて話も聞いたことがあります。
相手の話が聞こえないと、頭の中で整合性が取れなくなっちゃうんですね。
わからないことが、どうでもいいことならそれほどでもないんですけどね。
自分の将来のことで、わからないことについて考えだすと、
途端に、
「どうしたらいいんだろう??」
みたいな思いが延々と湧いてきてしまうんです。
意味への執着
文字も同じです。
文字を見ると、ついその意味を含めて認識してしまいます。
これも、文字を知ることによって手に入れた僕らの習慣なんですけどね。
どうしても、言葉や文字によって、意味への執着に引き込まれてしまうんですよねー。
そして、目の前の自然をついつい見失ってしまったりするわけです。
この習慣にどっぷりとハマっていると、全てのことには、意味や理由がある。
といった錯覚にもハマってしまうんですよね。
本来、意味というものは、この世には存在していません。
頭の中で整合性を作る時になって初めて、意味という概念が登場するんです。
サンバのリズムに合わせて、ダンスすることに、意味はありません。
でも、もし、不意に街中で踊っている人を見たらついつい、あの人はなんで踊っているんだろう?
ってねー。思っちゃうわけです。
何かを見ると、そこには意味があるはずだと思っちゃうわけですねー。
思考は言葉でできている。
思考というのは、言葉でできています。
そして、言葉というのは、すべて意味を持っているんですよね。
本来、目の前の全てのことに、名前もなければ、意味もありません。
名付けた時に初めて言葉が生まれ、そして意味が生まれます。
この意味から、幻想のようなあらゆる思考が現れているんです。
喧騒というのは、この言葉と意味付けによって、目の前のあるがままが失われることによって起こるんですよね。
なのでねー。
ことあるごとに、言葉をいったん置いておいて、わからんままにあってみる。
これが、
心の喧騒から離れて、今ここにある静寂を感じてみるコツなんです。
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