Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探究の終わりとはフィルター探しの終わりである。

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はじめに

ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

あらゆることは、起こっては消えていく。
ってなわけですが、
もっと率直に言っちゃうと、
なーんにも起こってすらいない。
それでいて、全てはただ起こっている。
みたいなね。
そんな感じなんですよね。

僕らが起こっていることだと思っていることってね。
ホント、思っていることなんですよね。

そして、思っていることというのは、
なんでも無いものを、思いに変換しているわけです。
もうここで、真実は見失われているんですよね。

 

フィルター探しこそが探究である。

真実は見失われている!
なーんてことを聞いちゃいますとね。
「えー!じゃあ真実を見るにはどうしたらいいの〜?」
って思うのが人のサガであるわけなんですが、

このどうしたらいいのか?
というのは、
どのフィルターを使って加工したらいいのか?
みたいなことと同じ意味になるんです。

僕らは、なんでも無いものを
ある種のフィルターを使って加工します。
この加工されたものが思考になるわけです。
そして、加工されているからこそ、元々の真実はもうそこで失われている。
ということになるわけですね。

フィルターとは過去の記憶である

では、このフィルターとはなんなのか?
といいますと、考え方のレシピのようなものになるわけですが、
このレシピの材料は記憶でございます。

あらゆる思考はこの記憶によって構成されているというわけです。
この記憶というものは、過去のものなんですが、必ずしも正確な過去ではありません。
都合よく加工された、過去だと思っているものによって構成されております。

なので、このようなフィルターを通してみた世界というのは、
まさに幻想のようなもの。
とも言えるわけなんですよねー。

フィルター探しの終わり。探究の終わり

「え、自分が見ている世界は幻想なの?」
なーんて思っちゃうと、これまた、
だったらどうしたら本当の世界を見ることができるの??
って考えちゃうわけですが、
この「どうしたら?」という部分もまた、別のフィルターを求めていることになりますので、結局同じことの繰り返しということになるんです。
そして、世界を思考で捉えるということは、このフィルターなしにはあり得ないんですよねー。
なぜなら、思考そのものが、何かしらのフィルターを通してストーリーを作り上げる。
という仕様になっているからなんです。

今起こっていることは実はもう終わったこと。

ま、つまり思考が、今起こっていると思っていること。
これは、今起こっているわけではなく、過去のフィルターを通したものであって、
もうすでに「今」では無いということ。
さらには、その過去すら正確では無い。
っていうことでもあるんです。

「えー!だったらそれほど深刻にならなくてもよくない??」
「よくなくなくなくなくなくない???」

って話なんですよねー。

そして、フィルターを通さず、ただダイレクトな今にただ在ってみたなら、
もう全てが常に新しいんです。

この今に在ってみる。
すると、もう全てがすでに赦されていたということを知るんです。
そして、赦されていないという思いが、躍起になって、
あらゆるフィルター探しをしていたことを知るんです。

そして、今までせっせとため込んでいた全てのフィルターに実体がないということも知るっちゅうわけなんです。

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