はーい。
おはようございます。タクさんです。
やっぱりねぇ。いろいろありますけどね。
今後、僕らに問われる能力は気楽さなんだと思います。
別に、どんなことも楽観すぎるシナリオを採用すればいいじゃーん。
ということではなくてね。
悲観なシナリオであっても、気楽さを持って読む。
っていう感じですかね〜。
あくまでもシナリオですのでね。
アリとキリギリスのお話がありますよね。
夏の間、遊び呆けて、冬に食べるものがなくなったキリギリス。
夏の間もコツコツと働いて、冬の食べ物も蓄えていたアリ。
冬に食べるものがなくなったキリギリスがアリさんを訪ねるという話でしたよね〜。
そのあと、アリがキリギリスを見捨てるバージョンとか、助けるバージョンとかいろいろありますが、
とにかく。
気楽さの話をすると、まるでキリギリスをオススメしているように感じる方がおられるんですけどね。
そうじゃないんです。
別にアリでもキリギリスでもどっちでも良くて、いろいろと起こるあらゆることを、深刻さを通して観るんじゃなくて、気楽さを通して観たら良いじゃん!ってことなんです。
やることは一緒だとしても、深刻である必要ってありませんからね。
一所懸命何かをするのも、気楽さを帯びながら一所懸命働けば良いわけです。
ま、気楽に深刻をやればそれで良いのかもしれませんね。
ちなみに、
アリとキリギリスの話の後日談があるのだとしたら、
その後、アリもキリギリスも精一杯生きたあと、死にました。
って話になるでしょうしね〜。
結局、遅かれ早かれやないかい!
って話なんですよね。
そしてもちろんこれはシナリオですしね。
気楽さ
気楽さ、いい加減さ。
これを身につけるのが、今後の生きる知恵になってきます。
なぜなら、昔と違って、今は人の価値観の変化のスピードがものすごく早くなってきているからなんです。
これはこうすべきだ!とか、
とにかく続ける!
みたいなね。生真面目さというのは、変化があまりない時代には重宝される価値観なんですが、
環境がガンガンと変わるような時代にはちょっとそぐわないんですよね。
コロッコロと変わっちゃう。
朝令暮改もいとわない。
これには一種の気楽さ、いい加減さが合うんです。
今までの生きる知恵
産業革命以降は工業生産の時代でしたのでねー。
学校教育や社会道徳みたいなものも、この工業生産に合う人物像を作るために
制度化されてきております。
学校での集団生活や反復作業の練習。
和をみださない従順な態度に真面目さ。
みたいな価値観は、全部、工業生産の歯車として使いやすい人材を作るためですし、
また、このような特性は重宝されていたんです。
でも変化に柔軟に合わせていくような時代になると、
これらの特性は今後はマイナスに働くんだろうなー。
なーんてね。
思ったりしております。
気楽さを阻む恐怖
まあねぇ。
とはいえね。
気楽でいていいの?
だって、心配じゃないの?
ってね。
気楽でいること。ここに恐怖を感じちゃいますよね。
きっと、気楽さを阻むのは、この恐怖なんでしょうね。
みんな、気楽ではいたいと思いながらも、この恐怖があるので、
なかなかねー。っていう場合もあると思うんですよ。
でも、気楽さとは不真面目さではありません。
ただただ、全てを許しているだけです。
起こることは、実に様々ではありますが、
これらも許されているから起こっているわけです。
だから、これをゆるせないという自分の反応も、許してあげりゃいいんです。
VIVAをつける
気分がキューって落ち込むとき。
人の様子を見て、自分がとっても小さく感じるとき。
なんだか、将来に光明が見出せない時。
とってもツラく感じるあれこれ。
こんなことってね。
みんなに起こることなんです。
なかなか、それを許すことはできないかもしれませんけどね。
全てを許すというのは、許せなくてもいいってことですのでね。
もうVIVAをつけてあげればいいんです。
キューって落ち込んでいるのなら、
ヴィヴァ!、キューって落ち込んでる。
っていってあげるんです。
自分が小さくかんじるのなら、
ヴィヴァ!自分が小さく感じる。
っていってあげるんです。
オサレなヴィヴァの響きが合わないのであれば、
万歳!でもいいんですけどね。
どうにもできないことは、どうにもしなくていいことです。
ヴィヴァ!とでも言ってあげればいいんです。
僕らは基本的に起こってないことを怖がってるんですよ。
— taku (@TakuTakuteto) 2020年3月13日
でも、起こってないんだということを受け入れて怖がらなくなろうとしなくても良いんです。
起こってないことを怖がることがもう本能ですのでそれで良いんです。
そんな起こってないことを怖がるくせがあることを知っておくのが大事なんです。