Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては非の打ち所がなく完璧である。

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はい。
おはようございます。
最近鬼ごっこをしてないなぁ〜と感じているタクさんです。

鬼ごっこって世界中にあるんですねー。
これはこれですごいね。

また鬼ごっこといえば数々のスピンオフがありますよね。
ウィキで調べたら、こんなに出てきました。

いろ鬼
こおり鬼
かわり鬼
バナナ鬼
しっぽ鬼
高鬼
手つなぎ鬼
ボール鬼
ケイドロ
隠れ鬼ごっこ
ぼうけん
バラ当て
水雷艦長
スポーツ鬼ごっこ

ルールが単純なので、いくらでもスピンオフが生産されるんですねー。
まー、僕が好きだったのはケイドロかな。
僕の地域ではドロタンって言ってましたけど。

皆さんは普段、どんな鬼ごっこをされていますでしょうか?

仕事も、子供の頃、夢中で楽しんだ鬼ごっこのような感じで楽しみたいもんですよね〜。

 

 


起きていること。そのすべてが完璧

ただ起きていること。
その全てが完璧である。
非の打ち所がなく完璧なんです。

なんて事のないうだつのあがらない日常。
これがまさに非の打ち所がなく完璧なんです。

まあとは言ってもね〜。
なんかよくわかんなくなっちゃいますよね。
だって、完璧って思えないことも盛り沢山ですもんね。

「んなわけあるかーい!」

ってね。

思いますよね。
ま、その「んなわけあるかーいっ!」も含めて完璧なわけですが、
そう聞くと、僕らは、じゃあ完璧だと思えるようになろうってしちゃいがちです。
そして、そこんとこが、この完璧さにたいする誤解を生じさせているのかもしれません。

まだ非がある。だから到達していないという誤解

どんな誤解を生じさせているのか?といいますと、
私はまだ、すべてが完璧だと感じられない。
非の打ち所がないとはまだ言えない。
だからまだ、到達していない。という思いです。

この思い込みが誤解なんですねー。

到達しようとすると、余計に「今」という全てから、
かけ離れてしまう。
みたいなね。
そんな感じになっちゃうんですよね。
瞑想や座禅っていうのも完璧を目指すものじゃないんです。
完璧という奴は目指すと逃げるんです。

完璧さは目指して手に入れるものではありません。

なぜ完璧を目指したり追い求めると逃げちゃうのか?
といいますと、もうすでに完璧だからなんです。

すでに完璧なものに手を入れると、手を入れることで完璧が消えちゃう。

みたいなね。
そんな感じなんです。

非の打ち所がない完璧さっていうものはね、
今ある非をクリアして完璧を目指すんじゃありません。
そもそもね。この非っていうのは本当なのか?嘘かもしれんぞっ!
ってね。
そっちを見ていくんです。

その非はどこから出てきているのか?

そもそも、その非っていうのはなんやねん?
って話なんですよ。
その非はどこから出てきているのか?って話なんですよねー。

非というものは、是非がなけりゃでてきません。
つまり、非というのは是非が土台になっているんです。

是非とは何か?というとこれは条件です。
ある条件に沿うなら、是。
沿わないのなら、非。
ということになるんですね。
この条件にたいする深刻度が高ければ、
この条件に沿わない非は、恐怖となるわけです。

そして、今はまだ是とは言えない状況だと、
今に飛び込むことを否定するんですよね。
だってねぇ。
恐怖をそのままにしておくと怖いですからねー。

是非の是非を問う

さてさて、そんな是非ちゃんなんですが、
この是非ちゃんは条件なので、いくらでも作ることができます。
鬼ごっこのスピンオフ作品が幾つでも作れるのと一緒ですね。
条件とはルールです。
鬼ごっこと一緒でルールさえ作っちゃえばいくらでも増やせるんです。
材料はイメージなので無限大なんですよね。

だから、非の打ち所がないを目指す際に、この条件をクリアしていくという方法を選ぶと、キリがなく続くので、いつまでたっても「非の打ち所がない」に到達することはできないんです。
だから、ここは逆に考えてみたらいいんですよね。

条件って本当にクリアしなきゃならないものなの?
もしかしてクリアしなくてもいいんじゃないの?
そもそも、この条件ってホントなの???

ということをですね。
確かめてみるんです。

是非の是非を問う。ということですね。

是非とは鬼ごっこのルールと同じ

条件というのはルールです。
ルールというからには、鬼ごっこのルールと同じです。

そして、ルールというのはすべて、思考によって作られるものです。
実体があるものではありません。

思考と言語を共有できない者同士はルールは共有できませんもんね。

そして、ルールというのはたくさんありますが、これらルールに価値の高いも低いもないんです。

この辺のことを観ていくことによって、本当にルールはルールでしかないことに気づいてくるんですよねー。

「是非」は実体のないものなんです。
であれば、非の打ち所って元々は一切なかったんですよね。

なので、全ては元々、非の打ち所がなく完璧だったわけです。
ずっとね。

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