Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幸福と平安と人生の醍醐味のお話

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はいどうも〜。
おはようございます。
タクさんです。
僕ね。
小学校の入学式のことで、一つだけよく覚えていることがあるんです。
それはみんなと一緒に講堂かなんかで並んでる時なんですけどね。
後ろの方には、嬉しそうな親たちがいます。
そして、まじまじとみんなの顔を見ていたんです。
小学校一年生ですから、みんな可愛くて小さい子供なんですけど。
まあ、僕も一年生ですのでね。
なんていうか、可愛くは見えないわけです。
でも、大人の親たちから見たら、きっとみんな可愛いんだろうなぁ〜。
なんて想像しながらね。大人目線でこの子たちを見てみることにしたんです。
自分は後ろにいる大人なんだ!という気分になってね。
マジマジとまわりの子たちをみてたらね。
やっぱりみ〜んな可愛いんですよね。

うんうん。
後ろの親たちよ。
わかる。わかるぞ。
君らの子供達は、みんなとっても可愛いぞ!
って思ったんですよね〜。

そんな想像をしていたことを、40年ほどたった今でも思い出すとは、、、。
きっと、入学式はとっても退屈だったんでしょうね。

さて、今日のテーマは幸福と平安についてです。
悟りとは平安だと言われています。
そして僕らはその平安を求めたりするわけですが、
実は、本当に求めてるのは平安ではなく幸福であって、
幸福を求めるからこそ、苦を握りしめている。

なんかそんなことになっていたりするんですよね〜。
と、いうわけで、今日はその辺について書いてみますね。

はいっ!今日の目次です。

 

 

幸福と快感

幸福とは、できないことができた時に感じます。何かを掴み取った時、そこに僕らは幸福を感じるんです。
子供の頃、できないことが、
できない、できない、できない、、、やった!出来たー!
となった時。その時のうれしさや快感。これこそが幸福なんです。
もしかしたら、最初は、何かができた時、そのことを親が喜んでくれたから。
それがとっても嬉しかったから。
できることが幸福というものになったのかもしれませんねー。
そして出来るの快感は、常に出来ないを用意しなければなりません。
一度できたことは、2度目、3度目と繰り返すごとに、嬉しさ、幸福感は減っていきます。
なので、次の出来ないことが必要なんです。
出来ないことがあること。僕らはそれを不幸と感じますが、
不幸がないと幸福も存在しないんです。
時に泣いて、そして笑って。
これがまあ、人生の醍醐味とも言えるわけです。

平安と幸福のちがい

さて、では平安と幸福は違うのか?
ということなんですが、平安は不幸のなさを知ることで訪れるものです。
幸福は不幸あってこそ訪れるものなので、別なんです。
まあ、繋がっているので全然別物というわけではないんですけどね。

なので、平安は一見退屈です。
僕らは、幸、不幸にこそダイナミズムを感じるわけです。
泣いて笑ってが人生の醍醐味であるからこそ、それ以外には人生を感じられないんですよね。
なので、平安の正体は、実は退屈でもあるんです。

不幸を乗り越えたところにあるのが、幸福なら、
退屈を乗り越えたところにあるのが、平安である。

って感じですかねー。

幸福のコツは数打つこと

さて、幸福とは不幸を乗り越えたところにあると言いました。
では不幸とはなんなのか?
といいますと、何かしらの条件によって成立しています。
条件がクリアできない状態が不幸であり、その条件をクリアしすることで、幸福となるわけです。
つまり条件がないと乗り越える不幸もなく、幸せもないということになります。

さて、条件を乗り越えるにはどうするか?ってことなんですけどね。
それも、条件によりますが、どの条件にも運要素って絡んでくるんですよね。
なぜなら、全ては常に流動し変化しているからです。

では、幸福を得るにはどうすれば良いのか?っていうと、
出来ることはやって後は運要素のまかせる。
そして何より大事なのは、数を打つっ!ということに尽きるんですよね。
サイコロをたくさん降ること。
これが幸せを得られるコツなんです。

人生の醍醐味

人生の醍醐味というのは、この幸せと不幸せをガンガン味わうことでもあるんですけどね。
それもまた、数を打つ!ということになります。
では数を打つにはどうしたら良いのか?と言いますとね。
一つ一つの不幸が重たくて深刻だったら、
到底数を打つのってしんどくなっちゃいますよね。
幸せをたくさん得られる代わりに、失敗も多いわけですからね。
不幸が深刻であれば、そんなのがたくさんあったらツライですもんね。
数を打つなんてこともできないんです。

じゃあ数を打つにはどうすれば良いのか?
というと、面白がることなんですよね。
自分の足りなさ。
これを面白がってみることなんです。
どうしたら良いのかな〜ってね。
悩んじゃったりするときも、
どうしたら面白いかなぁ、自分にとってウケるのかなぁ?
どうなると自分が、輝くかな?
ってね。
そんな風に考えてみると、面白がれると思います。

平安と退屈さ

さて、幸福は条件によるものですが、
平安とは無条件さです。
条件のなさこそが平安です。
僕らは条件によってダイナミズムをあじわっています。なので無条件さはとても退屈に感じてしまうんですよね。
この退屈さを乗り越えたときに、平安を知るんです。
退屈さを乗り越えるには、条件を手放していけばいいんです。
条件というものがそもそも存在していないということが明らかになればなるほど、
平安が広がるんです。
退屈さを乗り越えた時にある平安は、あらゆるダイナミズムも含まれた全てなんです。

平安は醍醐味を助ける

ま、そんな平安なんですけどね。
この平安を味わえば味わうほどに、人生の醍醐味もまた味わえるんですよね。
なんていうか、条件というものが、おままごとのルールと同じものだということが明らかになることによってね。
条件にまとわりつく深刻さもまた減ってくるわけです。
この深刻さが減ると、面白がれるので、数を打てることになるんです。
お気楽にね。
だから、お気楽に、でもしっかりと真面目に色々とやってみるという醍醐味が味わえるんですよね。
なので、幸せになるには?足りないものを埋めるには?
ということにばっかり明け暮れるのではなく、
退屈さとその奥にある平安を味わってみることはオススメですし、
だからといって、平安だから何もしないのではなく、醍醐味を醍醐味として遊ぶこと。
つまり色々とやってみること。これがオススメなんですよねー。

これがオモロイにノレば良いじゃんってことの意味なんです。

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