Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

神の正体について

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あーなーたーはー。
神をしんじますかー。

というわけで、
おはようございます。
タクさんです。

いや、信じるか信じないか?
そんなことに委ねてどうするねん!

おるのなら、もう目の前に出てこいや!
それなら信じるしかないやろ!

ってねぇ。
思いませんでした?
僕は子供の頃、そう思ってました。

信じれば救われ、信じなければ罰が下る!
みたいな言葉ってねぇ。

もう呪いの言葉そのものですよね。

呪いというものは言葉によってなされます。
思い込みを信じさせることによって、その思い込みが呪いとなるんですよねー。

そういう意味でいうと、
「こういうことをしなければアセンションできませーん。」とか、
「ツボを買わなければ不幸になる」とか、
「印鑑を変えなきゃ不幸になる」とか、
こういうのも呪い一種だというわけです。
ま、なので、あまり真に受けないことですな。
これが呪われないコツです。

結局は自分の思い込みの問題ですからねー。

さて、神様にお話を戻しますが、
今日はこの神様の正体について書いてみたいと思います。

 

神という概念を持ってるのは、人間だけだと言われています。
他の動物は神様という概念を持っていないんです。

では、なぜ人間だけが神という概念を持っているのか?
と言いますとね。

人というのはねー。
仮想の概念を共有化することで現実として扱うことができるという能力を持っている。

ということと、

かなり発達した社会的な生物である。

ということが、関わっているんです。

しかもね。
この能力がね。
人を発展させてきた反面、生存本能をバグらせて、自分自身に苦を生じさせている原因になっていたりもするんですよねー。

まず、
仮想の概念を共有化することで現実として扱うことができる
という部分ですが、これは今までにも何度か書いていますので詳しい説明は省略させていただきますが、

名前(レッテル)をつけて、コップはコップと呼ぶことにしようねー。
と共有したり、ルールを作って共有することもできる能力だということです。

実際には名付けられたレッテルも、作られたルールも実在しないものなんですが、
あたかもこれらが実在するように感じられるんですよね。

この実在するような感じ。
これが現実であり、
現実というのは、何かしらのルールやレッテルを採用しない限りは存在しないものでもあるんです。

ちょっとややこしいですかね?

ではなぜ、ルールとかレッテルをね。
仮にそういうことにしているんだ。ということを僕らは忘れちゃって、現実として扱っちゃうんだろう?
と言いますとね。

そうしないと、高度な社会を構築できなかったからなんですよねー。

本来、生き物は生存本能を持っています。
これは、自身の命(正確に言えば生体機能)を守るために働きます。

なので、基本的には自分の命を優先するんです。
そして自分の命を優先するということは、基本的に自己中心的になるんです。

なので、動物は餌をもらう時もちゃんと並んだりしませんよね。
それが自然な姿なんです。

ですが、高度な社会を構成する場合、みんな自己中心的だと困るんですよねー。
ルールよりも、自己が優先されちゃうと、ルールは機能しませんからね。

なので、人は高度な社会を構成するようになってくると同時に、
自分よりも優先される概念を受け入れる能力を手にしちゃったわけです。

そして、ここに自分より上位の概念が登場するわけです。

自分より上位の概念は、自分より優先されますから、あらゆる決まりがつくられたルールである事は忘れ去られてしまったんですねー。

忘れるように仕向けられるようになったんです。
それは、しつけや教育といったものであったり、同調圧力であったり、社会そのものがそう仕向けるんですよね。

そして、僕ら人間は社会的な生き物ですので、この流れには逆らえないんです。

なので、僕らは自分より優先される上位概念をたくさん持っています。

例えばそれは、
「人の迷惑になってはいけない」という教えだったり、
「会社のために、チームのために」という思いだったり、
「国のために」であったり、
「僕らが信じている信条のために」
であったりするんです。

生物は普通、自分の命を永らえて、遺伝子を後世にのこすように働くわけですが、
人間だけは、上位概念を優先するあまり、自分自身を殺す場合さえあるんです。

この上位概念という考え方は、「価値の差」や「正しさと間違い」といったような概念形成にも強く作用したりするわけなんですよねー。

さて、
というわけで、「神の正体」というのは、何かと言いますと、
これもまた、人間だけが持つ「上位概念」のひとつなんです。

社会とは人の集まりによって成り立つものですが、この人の集まりの関係性が強固であればあるほど、社会はよりよく機能します。

ですが、強固でありすぎると、社会の敵というのも作り上げてしまったり、
はたまた、
この上位概念が強く作用し、個人をがんじがらめにしたりするわけです。
いわゆる全体主義というやつですね。

人間の歴史を紐解いてみると、時の権力者は、社会の運営に常に悩まされてきました。
そして、この社会を強固にするために、「神」という概念を使ってきたんです。

社会が強固になると、裏切り者に対して脅威を感じるようになります。
なぜなら、自分が属する社会は、自分よりも優先される上位概念であり、それが少しでも侵されることは、命を奪われる以上の恐怖になってしまっているからなんです。

なので、「神」という概念によって強固化された社会に属すると、
神の否定は、自分にとっても恐怖の対象になるんですよねー。

ま、現代の僕らは「神」という概念は希薄になってはきていますが、
神への冒涜となると若干の罪悪感を感じることがあるのは、そんな歴史的背景があるからなのかもしれませんねー。

そういうわけで、まとめますと、
僕らは自分よりも優先される上位概念を持つ生き物だという事。
そして、この上位概念が、暮らしやすい社会形成の役に立っている反面、
いろんな不自由さを生み出す原因にもなっているという事なんですねー。

 

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