ほい。
おはようございます。
タクさんです。
昨日の記事で、別の表現で
「気づき」について表現するよーっていっちゃったので、
その辺のことについて書いてみたいと思います。
さてさて、
僕らは目で風景を見ていますよね。
この見ているものというのは光です。
僕らは光の陰影であらゆるものを見ているわけなんですよね。
「気づき」もこの目と似ています。
気づきを探すということは、この目を見ているものの対象の中に探すということに似ていまして決して見つけることはできません。
同様に、僕らは「気づき」があるからこそ、あらゆるものを対象として捉えることができているわけですが、対象の中に「気づき」を見つけることはできません。
ですが、この対象はまさに「気づき」そのものでもあるんです。
気づきというのは、あらゆるものを照らす光のようなものです。
この光に照らされるからこそ僕らは照らされたものを対象として捉えることができるわけですねー。
光はあらゆるものを照らし、カラフルな色となって反射します。
反射された色は、光そのものでもあり、色でもあるわけです。
赤く反射した色を僕らは、赤いものがあるぞ!と認識するわけですが、
この光は、赤いものであると同時に、光そのものでもあるわけです。
そしてその光こそ気づきの光だというわけなんですねー。
赤いものというのは、まさしく「色」ですよね。
同時にこの赤いものは光そのものでもあるわけです。
すなわち「空」です。
色付けにフォーカスしすぎると、光そのものであるという当たり前の真実は、
「赤いっ!赤いゾッ!」という脳内の大きな声にかき消されるわけですが、
この赤い!はまさしく光そのものでもあるので、僕らは既に真実を見ているとも言えるわけですねー。
僕らは気づきによってありとあらゆるものを対象として捉えることができますが、
とらえられた対象は気づきそのものでもあるということなんです。
あなたがとらえているあらゆるものは、あなたという光が反射したものです。
つまり、あなたが見ている世界はすべてあなたそのものとも言えるわけです。
ぜーんぶが自分なんだとすると、もうここに、私とあなたという分離は成り立たなくなります。
つまり、「私はいない」となるわけです。
ですが、いるとかいないという二者択一の考え方もまた、色付けの概念の一つですので、
いる、いないというものもありません。
あらゆる色付けが落ちた時、残るのは光そのもの。
つまり、ありとあらゆる判断が落ちた時、ここに残るのは「それ=気づき」そのものだというわけです。
この光はもちろん赤も含まれますよね。
同様に、あらゆる判断やあらゆる概念もまた「気づき」そのものでもあるということなんです。