Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

小我と大我

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ほえーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
赤ん坊の頃の記憶ってありますかー?
僕はねぇ。
前にも書きましたが、とても覚えてるシーンがあるんです。
それは母親に写真を撮られた時の記憶なんですけどね。

もちろんこのころは、目の前の母親を母とは認識していませんでしたし、
写真を撮ってるということも認識していませんでした。
そして、話しかけてくれる言葉も何を言っているのかを理解していませんでしたが、
その時の写真を後から見て、その時の様子を母から聞かされた時に、
あー!その時のこと、おぼえてるー!
って思い出したんです。

この時って、自分を自分として認識すらしていませんでし、
赤ん坊なので、自分で動くこともできませんでしたが、
全くもって不自由感もなく、
言葉が通じないことにも全く不自由してなかったんですよねー。
もう完全に自由で足りないものもなかったんです。

どちらかというと、
言葉を覚えたり、自分という存在を認識するに従って、
この自由を失い、不自由さが増えていったように感じます。

 

小我と大我という言葉があります。

これは言い換えると、自我と真我と言っても良いかもしれません。

でね。
ぼくらが自分だと思っているこのいわゆる自分。
こいつって、全く自分じゃなくて、
何かと言うと、

見てきたことや聞いたこと。そして反応なんです。

僕らは、いつのまにかこれらに閉じ込められちゃったんですよねー。
赤ん坊の頃は閉じ込められていません。

目の前の母親を他人とも捉えていませんし、自分と他人といった認識もありませんが、
とても自然に目の前の世界を観ていますし、世界に溶け込んでいるんです。

あなたは、男の子よ。女の子よ。
これは○○よ。
こういうことはしてはいけませんよ。
etc...etc…

といろんなことを聞き、いろんなことを見てきました。
そして、見てきたことや聞いたことの中に、世界を閉じ込めてしまったんです。

そして、僕らが認識している自分というのは、
この見てきたことや聞いたことの寄せ集めでできているんです。

つまり、自分と言いながらも、自分発信のものは一切なくて、
全てが外から持ってきたもので構成されてしまっているんですねー。

こうしてできあがった「自分」は、もれなく「外」の要素でできているので、
「外」の影響を思いっきり受けちゃうというわけなんです。

この「自分」がいわゆる小我だというわけなんですよねー。

「自分はいない」というのは、この構成要素がすべて思い込みでしかないという意味でもあるんです。

仏教なんかで言われる見性というのは、
このことを自らが知ることなんです。
これが、悟りの入り口だと言われています。

悟りとは、当たり前のことを当たり前に観るということです。
なので、特別なことではありません。

見てきたことや聞いてきたこと。
こっちの方が特別だったんだということの発見なんです。

 

 

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