人はなぜ悩むのか?
この悩みはいつになったら消えてくれるのか?
この悩みがあること。それが人にとっての最大の悩みなのかもしれませんね。
だから、悩みの解決を求めて、その答えを求めて、人は探求をするのだと思います。
いくら、
「足りないものはない。」
「何者かになる必要はない。」
と聞かされても。
そして、
そりゃそうだと、頭ではわかったとしても、
やはり、悩みが現れた時、その答えをついつい捜し求めたりしてしまいます。
そして、まだ悩みが起こってくるから、自分はまだ何か解決すべき問題があるのだ。
ってね。
思っちゃうわけです。
そして、自分にはまだ、探求の終わりはやってきていない。
と結論づけたりしちゃうわけなんですよね。
悩みはね。
あっていいんです。
悩みとは、人が持つ一つの機能なんですよね。
そして、悩み自体には一切問題はありません。
悩みというのは、結構常に湧いてくるものなんです。
それはある種の生存本能のようなものなんです。
そして、その生存本能とは、自然現象のようなものとも言えます。
自然がそういう仕組みになっているんです。
ただ、人は悩みを深刻なストーリーに作り替えたりします。
こういった能力もまた自然のなせるわざとも言えるかもしれませんが、僕らがドラマを見て涙を流したり、笑ったり、、、
それと同様に、頭の中のストーリーも入り込むと、これまた深刻に感じたりするんですよね。
そして、この深刻さが、悩みのストーリーをどうしても解決しなければならないと感じさせますし、解決できないとなると、余計に深刻さが色濃くなってくるわけです。
この色濃い深刻さが、常に命を脅かす危機と姿を変え、ストーリーを反芻(はんすう)するたびに、危機にストレスを感じ続けてしまうんです。
ストレスというのは、巷で言われるほど悪いものではなく、ある程度のストレスは生きるためのエンジンの役割を果たしてくれるものですので、うまくストレスと原動力にできればいいんですが、過剰のストレスは苦として感じられますので、なんとか排除しようと働くんです。
そして、悩み解決の答え探しに翻弄してしまうというわけなんです。
もちろん、解決できそうな悩みなら、解決しちゃうのもアリなんですが、人は常に悩みを生み出す機能を持っていますから、ついには解決しようもない悩みを持ち出してきたりするんですよね。
そんな時は、一度よく観てみたらいいと思います。
この悩みは単なるイメージでしかないのではないか?ということをよくよく観察してみるんです。
そして、悩みを生み出すこの機能は、「自分」に起こってるわけではなくて、窓の外に映る風景と同様に、自然の営みの一部でしかないということが見抜かれていきますと、悩み自体に問題があるのではなく、悩みを深刻に捉えれば捉えるほど、そこに苦が生じているということが見て取れるんです。
映画やドラマの悲劇をより深刻に捉えれば、その悲劇に囚われてしまうのと同様に、
頭の中に紡がれているイメージのストーリーを深刻に捉えるほど、ストーリーに囚われてしまっているんです。