Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

分離がないことと降参

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いやー。
しかしまぁ、なんていうんでしょうかねー。

子供の頃なんかはね。
無邪気に
「お腹と背中がくっつくぞ!」
とか歌いながら、お腹をへこますと、本当にくっつきそうな勢いで
へこますことができたもんですが、

これがいかんせん、
今は、いくらへこまそうとしても、十分すぎる厚みがどっしりと構えて、
くっつく気配を感じさせなくなってしまいました。

いやー。
ほんと若い頃は太るなんてことを微塵も感じなかったんですけどねー。
30代からは、トントン拍子です。

豚豚(トントン)拍子ってか!やかましーわ。

ただ、最近は太った状態で安定しているようで、
去年から体重は安定しているようです。

もう少し、下の方で安定してくれたら良いんですけどね〜。
と思いつつも、ダイエットとかだるいしなぁ〜とおもっておる今日この頃です。

ほい。
おはようございやす。
タクさんでございやす。

 

ま、お腹と背中がどんだけ分厚くなろうとも、
僕らのお腹と背中は分かれていませんよね。

だから、もうすでにくっついているわけです。

だから大丈夫っ!太ってない!
というわけではありませんが、
僕のお腹と背中もちゃんとくっついているわけです。

そして、表と裏。
これも分かれてはいませんよね。
表裏は一体となっているんです。

ちなみに、この表と裏という表現は、特に日本では多用されているように感じます。
野球でも表と裏を使いますし、
服でも表と裏を使います。
コインでも表と裏を使いますよね。

ちなみに英語では、
野球の場合は、トップとボトム。
服の場合は、インサイド、アウトサイド。
コインでは、ヘッドとテール(コインの絵柄に準拠)。
といったりするそうです。

なんだか、日本人は特に表と裏の概念が染み付いているのかも。。。
なんて思いました。

そして、表と裏の概念の奥には、表が主役で裏が脇役。
といった設定も隠れてたりしますよねー。

ヘッドとテールだと一つの体なのねー。
と繋がりを感じられますが、
もしかしたら、表と裏の方が分かれてる感覚があるように感じるかもしれませんねぇ。

ま、感じ方は人それぞれということですが、
僕らは分けないと認識ができないので、どう分けるのか?をこだわります。

どう分けるのか?こそが世界の切り取り方になりますし、
世界の見方そのものになりますからねー。
こだわりもひとしおだというわけです。

僕らが聞く音の背景には静寂があります。
だから音を聞くことができるわけですが、
この音と静寂は分かれてはいません。

僕らが観ている景色は全て光なのですが、
この光は陰影がなければみることができません。
影があることで僕らは光をみることができているわけですが、
光と陰は分かれていません。

僕らはあらゆる仕組みをストーリーとして認識しますが、
このストーリー内で「ワタシ」を作り出します

ですが、ストーリー自体に分離は存在していません。
一冊の本は分離されていませんよねぇ。

それと一緒で、ストーリーの中で分離が演出されているだけで、
実際に分離はされていないんですね。

僕らの最大のパラドックスは、認識するためには、何かを分けなきゃ認識できないけど、
実際に分かれているもの、分離されているものなんてどこにも存在しないということなんです。

でも、分けなきゃ認識できないという都合上、分離は存在しないということを認識することができないでいるんです。

そして、自我ちゃんは、認識がないと安心できないので、なんとか認識しようと踏ん張るんです。

わかろうとすればますますわからなくなり、
わかったことは分離されてしまう。
そして、分離が、全体性を覆い隠してしまう。

っていうねー。
そういうジレンマが生じているというわけです。

自我ちゃんに、何を踏ん張ってるねん。別に踏ん張らんでもええがな!
と諭してあげること。
これが、許しなんですねー。

そのまんまでいいよ!と許してあげること。
それは分離をしてつかみ取らなくてもいいよーということを許してあげることでもあります。

つかみ取らなくてもいいよーという許しは、
わからんでもいい!という許しでもあります。

この許しが、探求のジレンマから抜け出す、一つのキーとなるわけですねー。

 

 

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