Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

感謝のタネと基準のお話

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おはようございます。
髪が伸びるのが若干早いタクさんです。

もうねぇ。
良い感じのところで伸びずに止まっておいてくれたら、
いちいち散髪にも行かなくて楽なのになぁ・・・。
なんて思うんですけどねー。

そうは行かないのが世の中です。

このまま止めっておいてくれたなら、
もしかしたら、僕らの悩みの大半は、
それで片がつくのかもしれませんね。

でもやっぱり、全ては常に変化しています。

そこに何かに基準を設けたのだとしたら、
その基準の上をいったり下にむかったりすることは、
もう自然の理(ことわり)なんですね。

でも僕らは、基準を下回ると慌てだし、
上回ると安心したり、ときには天狗になっっちゃったりもするわけです。

慌てたり、得意になったり。
これもまた、楽しい人生の醍醐味なんですね。

 

基準の設定については、完全に個人の自由です。
だから、
「大学は偏差値の高い大学を出なきゃ恥だ!」
という基準で遊んでも良いですし、
「収入は平均の倍くらいは確保したい!」
という基準で遊ぶのも楽しいものです。

また逆に、
「はぁぁーー!空が青い!素晴らしい!」
という基準で遊ぶのもきっと楽しいですし、
「うおっ!今日も水道水がうめぇっ!」
という基準で遊ぶのもまた楽しいものです。

ただ、この基準は個人の自由で、遊ぶものなんですが、
この遊びが、いつしか真実かのように錯覚したならば、
基準を下回ることは、深刻な不安として感じられるものですよね。

そして僕らは生まれてこのかた、
あらゆる基準を叩き込まれて来たわけなんです。

べつに、深刻であるとしても、そこに問題があるわけではありません。
「空はいつか落ちてくるかもしれない!」
と思ったとしても、
「空が落ちてくるわけないじゃん!」
と思ったとしても、
どう思われたとしても、空は我関せずです。
起こるように起こるだけです。

何の問題もないわけですが、
基準を真実とするならば、
それは、世界をある種のうがった見方をするわけですから、
世界はその見方に応じて歪むよね〜。
っていう話なんですよね。

「歪むよね〜。言うよね〜。」

ってね。

実際に「苦」と言うものは存在していないわけですが、
僕らは歪めてみた世界の中だけに「苦」を演出していると言うわけです。

もしね。
あなたが時に、苦しみを感じるのだとしたら、
物は試しに、採用している基準を思いっきり下げてみたら良いかもしれません。

基準に真実性はありませんからね。
あくまでも、どのレベルで遊ぶのか?でしかありませんからね。

基準を下げる一つのコツは、
「感謝のタネ」を探してみることです。

僕らは感謝の気持ちを感じている時、基準へのこだわりはどこかに吹っ飛んでいます。

基準へのこだわりがなくなると、僕らは満たされます。

なぜなら、「足りない」という思いは、
基準の演出によって生み出される幻想だからです。

感謝は誰かに捧げるものであると同時に、自分を満たすものでもあるんです。

基準へのこだわりが吹き飛ぶと、新しい基準を再設定することができると言うわけです。

 

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