こないだね。
お金持ちと貧乏人の差は思想の差なんだ!
みたいな話を聞いたんですよ。
お金持ちの人っていうのは、
お金を稼ぐのは簡単だ!という思いを持っている。
だから、サクッとお金を稼いじゃう。
でも貧乏人はお金を稼ぐのは大変だと思っている。
だから、正当な請求するのにさえ罪悪感が働いてしまう。
結果、稼ぐのが大変だという思いが現実になっている。
僕らはね。
お金の教育っていうのを受けてこなかったわけですが、
お金のことは知っていますよね。
ではどこでそれを聞いて知ったのか?
というと、親から聞いているんです。
金持ちの子は、金なんてサクッと稼げるよ!
と聞いて育ったので、そういう現実を作るんです。
っていうねー。
そういうお話だったんですよ。
ものすごく端折ってますけどね。
一見なるほどねー。
なんて思いながら聞いていたわけなんですけどね。
お金のことは良いとして、
僕ねぇ。
若い頃はいくら食べても太らなかったんです。
スマートで顎がシャープ!というのが僕の代名詞だったはずなんです。
だからね。
太るなんてことはもう僕の中にはあり得ない概念だったんです。
なので、ガンガン好きなものを食べてきたわけですが、
最近、ものすごーく身体が正直に食べたぶんだけ太ってくれるんですよね。
これ、ちょっとどういうことなんでしょうか?
食べても太らない!とタカをくくってたおかげでずいぶんと体重が増えてきたんですが、、、。
はい。
おはようございます。
タクさんです。
みなさんはどんなことに思いを乗せていらっしゃってるでしょうか?
お金がどうのこうの、体重がどうのこうの。
とかね。
こういう思いっていうのは、厳密に観察して見ると、
いわゆる反応に乗っけられたものなんです。
反応という言い回しがちょっとよくわからなければ、
体験と思ってもらっても良いかと思います。
つまり思いというのは体験・反応に乗っかったものなんです。
よくね。
スピ系の言葉なんかでは、肉体のレベルが低いレベルで、
精神的なレベルが高いレベルである。
そして、より高いレベルで生きましょう。
みたいなね。
言い回しがあったりするわけですが、
まーこの辺については、レベルに高低をつけたがるのは、肉体レベルの反応だったりするので、
「どないやねんっ!」って話なんですが、
ま、思いというのは、何かに乗っかっているんだよーん。
ということをね。
まずは確認してもらえたらと思います。
そしてね。
肉体の体験とこの思いがセットになることによって、リアリティが演出されているんです。
そして、精神的な体験というのは、肉体の体験以前のものなんですねー。
肉体の反応を通してない。という表現でも良いかもです。
どちらの体験がより高尚だというものではないのですが、
僕らが往々にして見失うのは、
思いは実体ではなく、体験、反応に添えられて乗っかってるものでしかない。
ということです。
そして、声がはるかに大きいのが、肉体に乗っかった反応なんですね。
なので、僕らは無防備でいるとこの反応に取り込まれちゃいがちなんです。
よくこのブログでは、考えは置いておいて、ファッと緩んだならそこにリラックスし、
そして湧いてくるノリノリに乗っかってやったら良いんです。
みたいなね。
そーいうことを言ってたわけですが、
まあ、この言い回しについては、だいたいよくわからん!と言われることが多いです(笑)。
まあこれは、強引に言い換えると、
無防備でいるとついつい取り込まれちゃう肉体的な反応による思いについては、
一旦おいておいたら良いよ。
すると、その奥にある小さな声(反応)を発見できます。
その小さな声こそが、ノリノリであり、ワクワクですので、思いを乗せるのだったらそっちに乗せてあげたら良いんです。
と言い換えられるかもしれません。
肉体的な声というのは、あまりに大きく、その奥の声はとっても小さいんですよね。
「この声の種類は、どうやって判別したら良いのか?問題」については、
キュッと感じるか?ファッと緩むか?
それで判断したら、まあ大丈夫だと思います。
体の体験、反応というのは、どこかに力が入っている。
ということになります。
緩みの中には体の体験は含まれていません。
キュッと感じる思いについては、一旦おいておく。
スルーする。
そして、緩みの中から湧いてくるアイデアやインスピレーションに乗っかってみる。
という感じです。
これはね。
結構、注意深くあらないとすぐに小さな声はかき消されちゃいますので、
瞑想とか座禅とか滝行とか、ワークとかは、注意深くあるための練習のようなものなんですよね。
「注意深くあれ!」というのもそういうことです。
だから、ファッと緩んだならそこのリラックスしつつ、湧いてくるノリノリに乗っかれば良い!
ということになるんですねー。
ただ、思いは体験や反応に乗っかってるのねー。
「わかって??」くると、注意深くあろうとすることすら、
その必要性がないことを知っちゃうわけですが、
これは在り方というよりかは、仕組みの話に近いのかもしれません。
なので、まずは、呼び水として、思いを乗せる先を吟味してみたら良いんです。
それが、「心を込める」ということなのかもしれませんね。