Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私はいない、時間は存在しない その2

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

今日は昨日の記事の続きとなります。

 

takuteto.hatenablog.com

 

まあ、こういう話って、
シンプルすぎることの表現ではあるんですけど、
そうであるがゆえに、
なかなか表現が難しかったりしますよねー。

ただね。
一つ感じるのは、
こういう話を言う人と聞く人との間に、
いくつかのすれ違いがあるように感じるんです。

例えば、
これを言う人は、
今持っている、思いを手放してごらん。
と言う意味で、
こういうことを考えちゃったりしてない?
ああいうことを考えちゃったりしてない?
と言うわけですが、

聞く人は、
そう考えてるかもしれないけど、
今は、自分が考えていることを聞きたいんじゃなくて、
どうしたら良いかを聞きたいんだけど??

と思い、

言う人は、
何かをどうするか?じゃなくて、知らないうちにやっていることに気づいてごらん?
と言いますし、

聞く人は、
知らないうちにやっていることなんてないと思っていたりして、
???となる。

みたいな感じのすれ違いがあるのかもしれないなー
って思うわけです。

ま、もっと色々とあるんでしょうけどねー。

でね。
私はいない。
という話の意味がわからん!
と思ってる方もね。

この「私」と言うものに対する認識の違いのようなものが、
すれ違いを生じさせていると思うんです。

 

では、どのような認識の違いがあるのか?
と言う話なんですが、

多分ね。
「私」というものを存在として認識していると、
「私はいない」と言う言葉に混乱するんだと思うんです。

「え???いるやん。今もこれまでも、、、」

ってねー。なりますもんね。

でも
「私はいない」と言ってる側はね。
「私」を存在とは捉えていません。

「私」とは行為のようなものなんです。

行為は、存在ではありませんよね?

これは存在ではなく働きのようなものです。

風という働き。
これに存在性はありません。

「私」というのもまた、こういった働きなんだよ。
存在しているんじゃないよー。

って言っているわけです。

いやいや、存在してる!
って思うなら、どこに存在しているのか?探してごらん?

ってことなんですよねー。

僕らは全体をまんべんなく見ることはできません。
何かにフォーカスして初めて、何かを見た!
と言うことになります。

僕らが何かの音を聞く時、
その音の奥には静寂があります。

音と静寂を同時に感じると、
音への意味づけは消え失せます。

静寂を無視して初めて、音にフォーカスできるわけです。

気づきの意識もね。
そんな感じで働いているんです。

普段は全体としてあるわけですが、フォーカスし固定化した時に、
僕らは何かを何かとして認識するわけです。

僕らは固定化したものしか理解できないわけですが、
全ては常に流動し動いているエネルギーです。

ただそれだと理解できないので、
便宜上、固定したものとしているだけなんです。

そして、僕らは理解したものを現実として扱っています。
便宜上そうしていると言うことを、この現実が忘れさせているんですね。

「私」というものが、存在しているものではなく、働きであり、
便宜上固定化しているものに過ぎないということに気づいてくると、

あれもこれも全てが働きじゃん!
あれ???もしかして、分離して孤立してるものなんてどこにも無いんじゃね???

ってなことを思い出します。

なぜ、新たに知るのではなく、思い出すのか?というと、
僕らは便宜上、固定化以前も在るからです。

ここでいう在るは、固定化した在るとはちょっと違うので、
言葉では言い表せないわけですが、

在ると無いの在るではなく、在ると無いという判断以前の在る。
といった感じのニュアンスです。

条件や判断を駆使して理解しようとすると、
途端に「私はいない」と言う言葉がわけがわからないものになってしまいます。

なので、条件や判断を置いておいて、わかろうとせずにリラックスしてみたら良いんです。

そうした時に、どうにも居心地が悪く、なんとか理解の世界に戻ろうとする衝動が起こるかもしれません。

この衝動が執着の正体なんです。

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