はーい。
おはようございます。
タクさんです。
イヤなことに縛られてしんどいのなら、
その枠にとらわれなくてもいいんだよー。
ゆーてねー。
言ったり書いたりしているわけですが、
これね。
だからと言って、枠にとらわれていても、
それはそれで、全然問題ありません。
そもそも枠なんてあってないようなものですからねー。
どうあろうとそれはそれでいいんです。
だから、ツラさはツラさでガンガン味わっても良いんです。
たまにね。
「私はずいぶん楽になったのですが、うちの母が・・・」
「私は自由に生きているのに、うちの夫が・・・」
と言ったようなご相談をお聞きすることもあります。
でも、これは声を大にして言っておきたいのですが、
非二元に目覚めて生きるとか、
自由に生きるとか、
これこそが正解なのだー。
みたいなことは全然違いますからねー。
目覚めて生きるとかちょっと意味がわかりませんもんねぇ。
そのように演じて生きるならわかりますが。
まあそもそも、この話は、正解や間違いということすらないよー。
ってことなんです。
何かが正しくて何かが間違いだという思いは強烈な分離を生み出します。
そして、その分離に取り込まれるんです。
そして分離は、
「私こそは、真実を生きているのに、社会はまだまだ真実に目覚めていない。」
「目覚めた私たちが導かねばならないのだー!」
みたいなね。
妙な観念をも生み出すわけです。
こんなもん、阪神が好きか?巨人が好きか?
くらいなものですので、
社畜で生きるのも全然オッケー!
お金稼ぎもガンガンオッケー!
競争したいならそれもオッケー!
社畜がイヤならやらなきゃオッケー!
我慢してやるなら、それもオッケー!
競争がイヤならしなけりゃ良いし、
とは言っても競争に巻き込まれるのならそれもオッケー!
母の生き方が違うならそれで良いですし、
夫と生き方が違ってもオッケーですし、
離れたいなら離れても良いし、違いながら一緒にいても良いわけです。
この話は、あくまでも自分との対話なんです。
他人が気になる。社会がきになる。
という思いもまた、自分の中にあるんですよね。
全てはもともと、どうでも良いことなんです。
そんななか、「どうでもよくない!」という思いが
何かしらの執着を生み出します。
そして、それがイヤなら、その執着を執着と気づくことで楽になります。
執着を真実と見間違えているから的外れがおこるわけですからねー。
まあ、
真実としてみていると、どうしても真実としか見えなかったりするもんです。
すると問題がどうでも良いことから、問題として振る舞うわけです。
「この問題はホントにどうでも良いことなのだろうか?」
と思ったなら、
試しに、あそこのネコも同じように問題だと感じるかな?
と想像してみれば良いかもです。
きっとネコからしたらどうでも良いことなんだろうな。
と感じられるはずです。
としたならば、ネコと自分の違いが見えてきます。
だって、ネコはバカだもん。
って思うのなら、バカになれない自分はなにかしらの条件を掴み取ってるということになります。
そして、条件を掴み取ることが賢いことだと勘違いしていた自分の姿も観えてくるかもしれません。