Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

意味と価値への執着

f:id:takuteto:20190615162324j:plain

はーい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
どんなことに夢中になってますかー?

僕はですねぇ。
ま、色々とあるんですが、
例えば、
デザインなんかを作ってる時なんかは、
夢中になりだしたら、
もう身体の体勢なんか、そのまんまでずーっと作ってたりします。
気がついたら、足が思いっきりしびれている。
なんてこともよくあります。

デザインが好きなのか?と言われれば好きではあるんですが、
作ってる時は思いっきりカリカリしてますけどねー。

あとは、ギターやゲームなんかも、
やり始めると、ずっとやってますね。
下手なんですけど。

日曜日にやらせていただいているセッションでも、
いつもお客さんにあっという間だったねー。
って言われるんですが、
ほんとあっという間で、
ずーっと喋っていつのまにか外が暗くなってる。
なんてこともあります。

毎日書いているこのブログも、
書き始めると、あっという間に時間がたっちゃいますねー。

こういう話をさせてもらってる。書かせてもらっている。
というのは、ホントありがたいなぁ〜♪って思います。

僕は、そんなこんなの夢中時間を過ごしているわけですが、
みなさんにも、みなさんの夢中時間があると思うんですよねー。

 

やっぱり夢中時間って、イイものじゃないですか。
するとね。
僕らってやっぱり、自分がやってることに価値を見出したくなってきたりもするわけです。

やっていることに意味を見出したくなる。
って感じですねー。

これがねー。
実は、価値や意味を付与することによって、実は価値を下げてる。
なんてことにもなったりするわけなんですよね。

本来は100%。完璧であるのに、そこに意味をつけることによって、
本来の完璧さが、意味の枠に閉じ込められるんですよね。

ありとあらゆるものは、意味に依存していません。

例えば、目の前のコップは、
「俺はコップ様だぞ!」
と主張していません。

コップと呼ばれようが、お椀と言われようが、
コップは、なーんにも変わりません。

呼び方は単なる整理整頓のためのものでしかありませんが、
僕らは、そこに意味を付与することによって、比較の概念も持ち込んでしまいます。

そしていつしか、その意味や価値に翻弄されてしまうんです。

自己肯定感の低さに悩むのも、その低さのせいで妙な批判行動に出ちゃうのも、
これまた、意味や価値に翻弄された結果なんですよねー。

また、
「どっちでもいい」
という真実を受け入れづらくかんじるのもまた、
この意味や価値に翻弄されているからだったりするわけです。

翻弄されてますと、
「人生はオママゴトのようなものだよ」
とか言われちゃうと、

「なにぃー!わしの人生をオママゴトと一緒にするなぁー!」
と言いたくなったりもするわけです。

ま、これは、
意味や価値というものは存在してませんよぉ〜!
という話なんですけどね。

だから、
「どっちでもいい」
ということになるわけですが、

意味や価値への依存があると、
なんていうか、「どっちでもいい」というとどこか投げやりというか、
堕落のように感じたりもするんですよね。

そして、ハードルを課すことに生きる意味が有ると思ってたりもするんです。
いつしか、目の前の世界をそのまんまに観ることを忘れ、
意味だけを観ていたんですよね。
そして、
意味のないことは価値がないことという
解釈になってしまったりもするわけです。

この意味への執着が、
ありのままの目の前の世界を、意味と解釈によって生じる別の世界として解釈するクセとなっているんです。

 

※タクさんセッション受付中です。

takuteto.hatenablog.com