Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

条件からの卒業。

f:id:takuteto:20190609172716j:plain

「これ」でも「それ」でも、
「非二元」でも「さとり」でも、

呼び方はなーんでもいいんですが、
この話は、
そういった何かが「わかる」ということではありません。

この話は「わからん」に落ち着く。という話なんです。

逆に、何を「わかった」ことにしておるのや?
という話なんですよねー。

この「わかった」ことに対して、僕らは迷い、悩むわけです。
悩みや迷いは、「わかった」ことにした時に採用した条件によって
引き起こされているんです。

僕らは「わかった」ことを積み上げて、
現実を観ているというわけなんですけどねー。
この「わかった」ことというのが、単なる幻想であり、
この幻想を積み上げた現実は、蜃気楼のようなものである。

ということなんですよねー。

 

もちろん、だからといって、この蜃気楼で遊ぶようにできているわけなので、それが消えてなくなるというわけではないんですが、
蜃気楼を蜃気楼だと、ちゃんと扱ってあげたらいいんです。

蜃気楼を真実と扱うことによって
悩みや迷いに深刻さが帯びるんですよねー。

この深刻さがなきゃ、迷いはおこっても、
それは、コーヒーにするのか紅茶にするのか?
という迷いや、
他のどんな迷いにも、そこに深刻さの違いはないということがもうバレてしまっています。
だから、楽しく迷いを遊べばいいってことになるわけですねー。

まあでも、
そう聞いちゃうと、
この現実は蜃気楼だということを、なんとかして解きあかそう!理解しよう!
としちゃうわけなんですけどね。

蜃気楼に見えないということは、何かしらこれは現実であるという条件をいくつか握っているというわけです。

この握っている条件の嘘さの方を観ていったらいいんですよねー。

この条件は、あまねく全ての人たち。そして全ての動物たちにとっても共通の真実なのか?
この条件は、無人島でも採用される真実なのか?
この条件は、マサイ族でもそうなのか?
そして、この条件は、言葉というツールを使わなくても真実だと言えるのか?

ってねー。

まあでも、そんなの屁理屈に聞こえちゃうかもしれません。
だとしたら、なにかしらの条件によって
なにかが「わかったこと」になっているのかもしれません。

そうなるとね。
今度は、何かしらの方法を使って掴み取った条件を解放していかなければならないのか??
なんて思ったりするかもしれませんが、
そういうことでもありません。

条件を採用しない自分になるということでも、
条件を一切捨て去るということでもありません。

単に、条件は条件なんだと知るだけなんです。
「条件が手放せない!」
と思うのなら、それは条件を条件ではなく真実だとしているんです。

条件を手放す必要なんて無いんですが、それが困った真実だという思い込みが、手放さなければならないという思いを引き起こしているんです。

目の前にあるもの。
それは条件でもレッテルでもありません。

つまり、コップはコップですらありませんし、
椅子は椅子ですらなく、
何でもないものなんです。

この何でもないものの見方を忘れ、
僕らはいつしか、目の前のものをそのままではなく、
つけている条件の方をみていたんです。

そしてこの条件に振り回されていたというわけなんです。

全ては無条件であり、そして未知なんです。
この未知さを突きつけられると、あらゆる条件もまた愛おしいものだったことに驚くかもしれません。

そして、自分もまた、愛おしい条件の一つなんです。
この条件は未知の中に溶け込んでいきます。

 

 ※タクさんセッション受付中!

takuteto.hatenablog.com