Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ビバやな奴!

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かーっかっかっか!
おはようございます。
タクさんです。

皆さん、いい子にしてますか〜?
ダメですよ〜。
あまりいい子ばっかりしてたら。

やりすぎると、
「いい子であるべき!」オバケに捕まっちゃいます。

もしかして、いい子でいるために、
自分を「いい子でいなければならない」という枠に
閉じ込めてしまっているのだとしたら、

さらには、その枠に自分自身が窮屈さを感じているのだとすれば、

それ、もう、そもそも自分が何をしたかったのかよくわからんっ!
ってなことになってしまっちゃいますのでね〜。

 

いい子でいなきゃいけない。
だから、やなことも受け入れて、
世のため人のためにとまでは言わないけれども、
なんとかできる範囲でだけは頑張ってはみる。

そうやって頑張ってはきたけれども、

全然報われないし、好き勝手やってる人に迷惑を被ったり、
好き勝手な人が幸せそうにしてるのも腹が立つし、、、。

ってねぇ。

まあ、いい子いい子って子供の頃から言われ続けりゃ、
それがいいことなんだ。みたいに思っちゃうわけですが、
これが、
「いい子でなきゃいけない」という刷り込みになっちゃって、
こんどは、いい子じゃない者をみれば気になってきますし、
それで報われない場合は、
「あれ???おかしいじゃないかー!」
ってなってくるわけですねー。

別に、いい子にしてても報われないのは、おかしいことじゃありません。

「いい子でなきゃいけない」という思いを持っているからおかしいとなっているだけなんですよね。

だったら、正解はどこにあるんだろう?
「いい子じゃなきゃいけない」が正しくないのなら、
どこに正しさがあるんだろう?

と、より正解に近い解答を捜し求めたりもしたくなってきたりするわけですが、

別に「いい子じゃなきゃいけない」は正しくもなけりゃ間違いでもないわけです。

これは、単なる思いですからねー。
そしてどんな思いでも、それを信じてれば、その思いを通して世界を認識するわけです。

世界を掴み取るからには、何かしらの認識をするということですので、
認識のための何かしらの物差しを利用しているということなんですよねー。

なので、
いい子にしているのが好きなら、そうすればいいし、
そうしたくなければしなくてもいい。

というわけなんですよね。

これは、いい子をやってるのがが好きな人がいてもいいし、嫌な子を演じるのが好きな人がいてもいい。
ということにもなります。

このどっちでもよさを自分に許せてあげると、
いい子じゃない人を見ても、
それに対して裁こうという気持ちはなくなってきます。

もちろん、
好きか嫌いかは残りますけどねー。

また、いい子じゃなきゃいけないという重りがとれると、
意外と、自分が作ってたいい子の条件を破ったところで、
思ってたほど人から嫌われるわけでもない。
ということにも気がつくかもしれません。

今までは、自分が「いい子であるべき!いい子じゃないとダメ!」と、

いい子じゃないというのをおもいっきり許していなかったので、
きっと他の人も同じはずだと無意識に思ってたりしていたわけです。

なので、いい子じゃない自分は嫌われる。
って思い込んでたりもするわけなんですよね。

ですが、結構、その辺は人それぞれであって、いうほど人のことを気にしてない人も多かったりしますのでねー。

ま、僕の場合は、いうほど人って人のことを気にしてないでしょ!
って思いすぎて、
「お!!!意外と人のことを見てるのね!」
とビックリすることの方が多かったりしますが、、、。

なので、案外嫌われたりはしないなぁ。と感じたりもするわけです。

ま、思いっきり嫌われるかもしれませんが、それならそれでヨシですしね。

いい子であるべきという重りが重たいのなら、
いい子じゃなくてもいいを許してあげれば軽くなります。

そして、自分に合わない重りが外れていけばいくほど、
沸き起こる自身の表現は自由な表現へと変容していくんです。

また、もっと極まってくると、
あらゆる観念には、そもそも重さなんてないじゃんっ!
だって、モノじゃないんだし!

ってなことが明らかになってきます。
そうなると、もうどんな観念を持ち込んでいたとしても、そこに重さは無くなります。

重さということが錯覚として見抜かれるわけなんですよねん。

だったら、「いい子じゃなくてもいい」ということをわざわざ許さなきゃならないわけでもない。
というふうになってくるんですよねん。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え