Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分観察

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はい。
おはようございます。
タクさんです。

自己の探求。
真我の探求。
みたいなものってね。

ま、要するに、自分との対話なんだと思うんですよ。
ま、実際にお話し合いをするわけじゃありませんので、
自己の観賞ですね。

自己を観るとは、
そもそも、ワシは何を「ワタシ」としておるんだろう?
という観察ですねー。

そこを注意深く観てみればいいんです。

あらゆる思考や感情は、「ワタシ」がやっているのか?
それとも、勝手に起こってきているのか?

思考や感情は、どうやって尾ひれがついてストーリーとなっていくのか?
こうしたいという希望は、
こうじゃないと困るという不安は、
どこから起こってるのか?
誰が起こしているのか?

なぜ不安を不安のまま置いておいたらダメだと思っているんだろう?
不安は、常に解消しておかなければならないというコンセプトはどこから湧いているのか?
誰がそう決めたのか??

みたいにねー。
落ち着いて、ゆったりと観察してみたらいいんですよね。

 

よくよく観察してみると、
何に見当違いをしていたのか、気づける瞬間があると思うんです。

そもそも、何かが有るでも無いでもない。

有るとか無いとか、良いとか悪いとか。
こういったコンセプトを盲目的に信じていたことを発見するんです。

そして、今まで、
この有るとか無い正解と間違い
これらが、いかにあるものだと思っていたのか?
あって当たり前だと思っていたのか!
ということを、思い知るんですよねー。

そっかー。
「ワタシ」というコンセプトが、そのコンセプトの上で、
有るや無い。
正解や間違い。
あれとこれ。
こっちとあっち。
昨日と明日。
等など。
そういうことを必要としていたんだねー。
ってね。
知るわけです。

知るからには、誰が知るの???
って思うかもしれませんが、

知るのも観るのも、それらに行為者はいません。

みたり知ったり聞いたりするのには、主体と客体があるはず!

すなわち、主体となる行為者がいるはず!
というのも、これまたコンセプトに過ぎなかったんですよねー。

全ては、イノチの表現そのものであり、そしてその表現は同時にその表現を観ているんですよねん♪

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