僕らって、どう在りたいのか?っていうのを忘れちゃってる時、
見失ってしまってる時に、道に迷ったりしちゃうのかも知れません。
いろんな不安や悩みってあるんでしょうけど、
やっぱ、まずは自分がどう在りたいのか?
ということをね。
確かめて見たらいいと思うんですよねー。
で、それを最優先してやったらいいんですよ。
その上でね。
自分が許してない部分を探っていくんです。
確かに、理想としてはこう在りたいというのはあるんだけど、現実的に考えるとそうもいかない。
みたいな理由が出てくると思うんです。
その時、そうもいかないのは、何がそうもいかないのか?
もしかして、そうもいっても良いんじゃ無いか?
ってことを見てみるんです。
「〇〇は絶対にダメだ!」って思ってたなら、
「〇〇でも別にいい」
ってねー。
ちょっと言葉に出して、言ってみたらいいんです。
ありがちな許せないリストをちょっと挙げて見ます。
これらをさらっと読み上げられるならオッケーです。
「養ってもらっても良い」
「迷惑をかけても良い」
「悪口を言われても良い」
「人に嫌われても良い」
「人に好かれなくても良い」
「場の空気を読まなくても良い」
「好き嫌いがあって良い」
「嫌いな人がいても良い」
「変な目で見られても良い」
「親らしくなくても良い」
「夫らしくなくても良い」
「妻らしくなくても良い」
「男らしくなくても良い」
「女らしくなくても良い」
「子どもらしくなくても良い」
「大人らしくなくても良い」
「破産しても良い」
「人並みでなくても良い」
「足りなくても良い」
そして、、、
「アホでも良い」
気になっている「〇〇ではダメだ!」を「〇〇でも良い」と言葉に出して言ってみる。
これがサラッと言えないなら、
そこに許せない自分というものがあるというわけです。
そして、その許せないが、自分の中に「足りない」を作り出します。
さらにこの「足りない」を軸足に置いた思考が展開され、そこから悶々とした悩みが生まれるというわけですねー。
で、これらの思考が、
「自分はこう在りたい」を覆い隠してしまうというわけなんです。
単に言うだけでも憚られるといった衝動が出てくるんだとしたら、
そこに何かしらの掴んでる強い観念があるということになります。
良いのか悪いのか?どちらが正解なのか?という問題はここでは、ひとまず置いておいてください。
そもそも、正解も間違いもありませんからね。
そして、激しい抵抗感が現れたとしたら、それは何かしらの恐れから生じている場合が多いんです。
その恐れの観念が、起こっても無い何かを、今、恐れてるんですよねー。
つまり、無いものを怖がってるとも言えるかも知れません。
これって、お化けを怖がってるのと同じことが起きてるんです。
ラマナマハリシさんというインドの聖者さんが、
「見る者と、見られている対象物とは、ロープと蛇のようなものである。
蛇という間違った知識が消えないかぎり、実体であるロープという知識はやってこない。」
といったような表現をされていますが、
まさにそうで、ないものへの恐怖から、あらゆるストーリーが作り上げられ、
そして、そのストーリーが「私はこう在りたい」をも覆い隠しちゃうというわけですねー。
となると、恐怖を克服しなければ!!!
と思っちゃうのが人情ですよね。
でも、恐怖は克服できません。
これは人の生存本能による機能だからです。
真実を見据えると言うのは、
「ああ、こういう風に恐怖を駆り立てて、身体は身体を守るようにできてるんだー。便利だね!」
ということを観るということなんです。
ありのままの働きを観ていくことで、恐怖は便利だけど、
ちょっとお節介なアラート機能なんだと気づいていくんです。
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