僕らが使う言葉は、
思っている以上にパワーがあります。
どんなパワーがあるのかというと、
イメージを作るパワーです。
そして、僕らが思考によりフォーカスされているときは、
言葉が頭の中を駆け巡ります。
そして、それを一番近くで聞いているのもまた、自分自身なんです。
耳元で同じフレーズをささやき続ける暗示ってのがありますが、
普段僕らが頭の中のささやきに耳を傾けているときは、
それと同じことを自分自身でやっているんですよね。
だから、言葉には気をつけよう!
といった提言もよく聞きますよね。
良いこと、前向きな言葉を使おうね!
とかね。
頭の中のささやきはもちろん、
誰かに向けて話しているときも、
やはり、一番近くでその言葉を聞いているのは自分ですのでねー。
そして、思考は聞いた言葉を瞬時に解釈しようとします。
これは自動的に起こるので、言葉を聞いた途端、
その解釈のイメージが駆け巡るんです。
例えばね。
「ジューシーな唐揚げ!!!」
ね!
ジューシーなイメージが頭を駆け巡ったでしょ?
「絞ったレモン汁を口にふくむ!!!」
どうでしょう?
文字を読んだ途端、唾液が出てきたりしてませんか?
そう。
言葉はイメージだけじゃなく、身体の反応までをも作り上げるんですよね。
そして、僕らは身体の反応とイメージが組み合わさったものを「現実」と呼んでいるんです。
さて、そんな言葉なんですが、
その言葉は見かけ上で、分離のないそのまんまを分離させる機能を持っています。
なので、言葉を追いかけても分離のなさには到達しないんですよねー。
言葉自体が分離の機能を持ってるので当然ですよね。
「それ」は言葉では到底表現できるものではありません。
というのは、その理由からです。
別にものすごく難しいことだからでは無いんですよね。
なので、
言葉を一旦脇に置いておき、思考や感情が言葉での断定を求める様子をやり過ごし、そのまんまにしておいてみるんです。
言葉を置いておくと、
なんのひらめきもない、なんの理解もない。
なんとも頼りがないように感じるかも知れません。
そんな、頼りない今にただ佇んでみたらいいと思うんです。
「こんなことが何になるんだ?」
「これのどこに答えがあるんだ?」
といった問いが出てくるかも知れません。
そんな問いが現れたら、
また、その言葉を脇に置いておき、
求める衝動をやり過ごし、そのまんまにしておいてみるんです。
あらゆる心の反応は、相変わらず起こってくるかも知れませんが、
そんな反応に言葉をつけることによってストーリーとしていたんだ。
ということが、見えてくるかも知れません。
そして、
その反応から起こるストーリーという流れのカラクリを、
ただ、車窓から眺める風景のように観るでもなくやり過ごしていたなら、
ここに残るのは、ダイレクトな、名もなきあらゆる事が、
単に起こっては過ぎ去っている様を感じ取れると思うんです。
そして、この感じ取っている気づきの意識。
これだけは変わる事なく、イマ、ココにありつづけているんですよね。
もちろん、あり続けているっていうのは適当な言い方じゃ無いんですけどね。
だって、時間だってまた、カラクリの中にある一つの概念ですからね。
なので、単に在るわけです。
この気づきの中で起こるあらゆることは波のように起こっては消えますが、
その波と気づきは同じなんです。
その在るに個人という観念が降参する時、個人も在るに溶け込みます。
そして、ダイレクトなあらゆる事がまさにダンスしているんです。
そのダンスだけが残る時、完全な静寂と、起こり続けるダンスもまた一つに溶け合います。
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