Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ま、良いかという許し。

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おはようございます。
ヌゴゴゴ!
なぜ年末になると妙に仕事が増えるんじゃー!
と憤っておるタクさんです。

皆さん
どんな年末をお過ごしでしょうか?

あ、
そうそう。
メールの返信が遅れてる方がおられるかもしれません。
多分、僕がボケてて、抜けちゃってる場合もありますので、
お、こいつボケとるな!とお気付きの方がおられましたら、
一声ご連絡ください。

 

さて、
今日は
なぜ、
「ああ行為者はいないんじゃん!」
ってことが明らかになると苦から解放されていくのか?
って話をしてみたいと思います。

これね、ふつーに考えるとありがちな解釈としては、
「私がいないから苦を感じる私もいないはずだ!」
「だから、苦が消滅するんだ。」
っていう解釈なんですが、
なんていうか、
この解釈だと、ちょっと誤解が起こりやすいって思うんですよねー。

もちろん、間違ってる!って意味じゃないんですが、
この解釈が起きちゃうと、
それはそれで、「私がいない」を解釈しちゃう。
つまり
私がいないを私というまな板の上に持って来てしまう。
ってことになっちゃうからなんですよね。

そうじゃなくて、
この行為者がいないという安堵は、
いままで掴み取っていた、これは許せないという思いを許せちゃう。

の方が近いかもしれません。
ちょっと許すと言うのも語弊があるように感じるのですが、

許すというのは、
微笑んで迎え入れる。
といった感じではなくて、
どちらかというと、

ま、いいか。

っていう感じが近いかもしれません。

雨が降れば土がぬかるみます。
それは、当たり前ですよね。

思考もそれと同じように、反応によって起こってます。
嫌なことがありゃそら気分悪いですわ!
そりゃそういう思考が起こるやん。

って事なんです。

当たり前です。

そして、
パーソナリティだって起こります。
このパーソナリティが自分という観念を作っておるわけですが、
この自分は仮面のようなものです。

そして、この仮面のイメージが起こるのだって一つの自然現象なんです。
だから、私がいないからといって、私がいないフリをしなくても良いですし、
全てが幻想なんだと悲観して生きなくても良いんです。

あらゆるいわゆる悟りの体験は思考の中では役に立ちませんのでねー。
それを知識でつかんじゃってるのだとするとややこしいことになりますので、
忘れてしまったら良いんです。

ただ、自分という現れもまた、自然現象によるカラクリから出てきておるということですからね。
なんていうか、言うほど責任を持たなくても良いわけですよ。

みんなね。
悩む時って、自分のダメさについて悩んだりするわけです。
または、親のダメダメさについて悩まされたりしてねー。

なんで自分は普通の親に当たらんかったんや!
みたいな悩みもよくあるんです。

でもね。
みーんなダメダメですからね。

ダメならダメなりにダメさを可愛く感じながらやってけばいいやん!
っていう感じのね。
なんかそんな安心感があるんですよね。

どんなあなたも許されてるんです。

許してないのは、作られたルールをあなたが信じている間だけなんです。
鬼ごっこをしている間だけ鬼から逃げている。
というのと同じ図式なんですね。

もちろん、心は自分を守ることを最重要視しますので、
そういう働きは起こり続けます。
なので、心が許せないことは沢山あります。

そして、そんな許せないという思いも含めて許されているんですよね。

そういうカラクリの中で起こる喜怒哀楽は、
全て可愛く起こっています。

どんな起こりもあなたを損なわせるようなものではありません。
それは、味わいなんです。

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