Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

いこうぜ!退屈の向こう側へ。

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「行こうぜ!ピリオドの向こうへ!」
という事で、おはようございます。
タクさんです。

ちなみに、このピリオドの向こうへ!
って表現はね。
氣志團が言い出したんじゃなくて、
元はチェッカーズの歌なんですってねー。
知らんかったー。

氣志團、最近は知らないんですが、
あのヤンキーな感じは僕の世代のど直球です。

湘南爆走族とかビーバップとか
あの時代のカッコいいをやってる感じですもんねー。

 

ま、ヤンキーの話は置いておいて、
今日は、ピリオドの向こうへ!
ではなく、退屈の向こうへ!
っていう話を書いてみたいと思います。

あるのは、気づいている意識。
それしか在りません。

その意識の先っぽの方で僕らは自我に目覚めます。
そして、そこで織りなされる思考と言葉のストーリーに酔いしれるわけです。

いつしか、自我が思考をコントロールしている。
そして、自我が意識を持っているんだと思い始めるわけです。

何かを手に入れると、思考できるイメージが広がります。
経験を重ねるほど、イメージが広がり、
ストーリーのバリエーションも広がっていくわけです。

そして、何かを知れば知るほど、思考の質はより深みを増し、
そして、知れば知るほど、わからないことも同じだけ増えていくんです。

深みを増した思考は、より複雑なストーリーを作り上げていきます。

手に入れれば手に入れるほど、広がるこの世界は、
同時に、まだ手に入れてない知らない世界があるんだという観念を生み出します。

この観念は、より洗練した世界を獲得している人という観念や、
全然ダメダメな人といった観念をも作り出し、
自分はどの位置にいるんだろう?
大丈夫なんだろうか?
といった不安をも作り出すというわけですね。

そして、思考で理解できない世界の話を聞くと、
余計に手がかりを探そうとしちゃうわけなんです。

そんな思考と言葉が織りなすエキサティングなストーリーに慣れ親しんだ自我ちゃんは、もともとあった、単なる気づきの意識に留まるのが苦痛なんです。

は?そんなん単なる成長を止める詭弁じゃん!
目的を失わせて何かを奪おうとしてるんじゃないのん!
何にも産まない、何にも意味のないそれにとどまってどうしようっていうの!

と、
もっともらしい言い訳を自分に与えて、ストーリーに留まろうとするんですよねー。
積み上げてきたストーリーが失われるのをとても恐れるんです。

手に入れた観念を、取ったり取られたりするものなんだという勘違いをしているんですよね。
でも、手に入れてきた観念の本質は、実体のない無色透明のなんでも無いものなんです。
だから、どんな観念もそこに価値はなく、
ましてや価値の差なんて、ありようがないんですよね。

でも、無価値を恐れる自我ちゃんは、なんとか抵抗を試みるんです。

ちなみにそうやって抵抗を試みる自我ちゃんなんですが、
実は、この自我ちゃん自体にも実体はないんです。

なぜなら自我ちゃん自体も一つの働きに過ぎないからです。
思考と言葉が織りなすストーリーは、実体のない自我ちゃんが、
なんとか実体を得ようと抵抗する物語でもあったんです。

ま、でも安心してください。
もともと無いものを無くならせることなんて出来ませんからねー。
ただ、元々なかったことに気づくだけです。

だからといって記憶喪失になるわけでもありません。
ただ、どうやって深刻さを持ってたんだっけ??
みたいな深刻さの喪失はあるかも知れませんけど。
それ以外は特に変わりません。

深刻さの喪失のせいで、繰り返されてた思考が繰り返されづらくはなるかもですけど。

まあ、そういうわけで、ではどうすりゃ良いの?って話なんですが、
それは、
気づいている意識、その意識にリラックスするだけなんです。

それは、一見、ものすごく退屈に感じるんですけどね。
その退屈さの中にザブンッと飛び込んでみるんです。
そして、力を抜いてたたずむんです。

強烈に退屈に感じているその自我ちゃんを単に見てあげたらいいんです。

すると、退屈の向こう側に行けます。
退屈さのベールに隠された「それ」が明らかになります。

それは、どこまでいっても「それ」しかないという確信なんです。

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