Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

非二元:現実や幻想じゃ無いどこかに真理があるというわけじゃ無い。

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「ちゃうねんて!」
「真理とかいうものがどこかにあるんじゃ無いんですて!」

というわけで、おはようございます。
タクさんです。

まあ、そういうことを言いますと、

「それはわかってるんです。」
「ここが真理。いま、ここにあるということなんですよね。」
「それがわからないんです。」

「自分が全てだとも思えないし、
私がいないというのもわからないですし、、、。」

ってねー。
よく言われるんです。

 

まあこれは、真理だとかそういうものを現実として掴もうとしちゃうからなんですけどねー。
そういう意味でいうと、現実っていうものも無いんですよね。
だから、幻想だと言われてたりするわけですが、
その幻想も無いんです。

現実も無いし、幻想も無い。
そして、真理もない。

すると、クルンとひっくり返って全部あるになる。
っていう感じなんですねー。

うん。
クソわかりにくいですね。
すいません。

まあつまり、あるのはぜーんぶ真理な訳です。
当たり前ですよね。

あるものはありますよね。それが何か?っていうのは置いておいて。
ここは疑いようが無いと思うんです。

で、このあるもの=真理。
これを何かに見立てた時、この見立ては単なる見立てであって、
この見立ては真理を何かしらに見立てたものということであって、
この見立ては、真理そのものじゃありませんよね。

ということなんです。

ここに良い匂いのする茶色い物体があるとします。

あるヒトは、これを唐揚げと呼びます。
おお!今日は唐揚げか!美味しそうやんけ!ってね。

するとあるヒトは、ザンギや!ワシ好きやねん!って言います。
またあるヒトは、オー!フライドチキンー!テイスグーッド!ってゆーてます。
そして、そこにいるネコが、ニャッニャニャ!ってゆーてたりしてねー。

ここにある茶色い物体は、唐揚げでもザンギでもブライドチキンでもニャッニャニャでも無いんですが、そう見立てられた時だけ、その見立てが現実として受け取られているっていうだけのはなしなんですよねー。

うーん。
例えが下手ですいませんが、これは呼び方の違いの話をしているわけじゃありませんでして、
そこから受ける印象だったり、感情だったり、感覚だったり、、。
これらもぜーんぶ見立てだというわけです。

つまり現実とは、見立てなんですよね。

思考は現実化するっていうのは、そういう事なんです。
別に思考が現実に変化していく。
思ったことが引き寄せられるといったことじゃなくて、

僕らが現実として捉えているもの。
それが見立てであって、この見立てが思考やという事なんです。

なんでも無いものに対して、
マル!と捉えれば、それはマルですし、
バツ!と捉えれば、それはバツですが、
捉えている元の「それ」はマルでもバツでもない。
とまあ、そういう事なんです。

なので、もうすでに「それ」ですし、「それ」がどう捉えられようが、
どう見立てられようが、「それ」ですし、
捉え方に良い悪いもないですから、捉え方を変えようとしても無意味ですし、
ただ、捉え方を変えるのが楽しいならそれで良いじゃん♪

ってことになるんですよねー。

現実も幻想もそして、現実じゃ無いどこかに真理があるわけでもなく、
幻想じゃ無いどこかに真理があるわけでも無いんですよねー。

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