Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

問題解決について

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人ってついつい自分の成長、自分の進歩を確かめたくなっちゃうもんですからねー。
特に問題を抱えていたりすると尚更です。

こういう自分になれたから、もう問題は去ってくれるかな?
この方向性で頑張ったら、問題に負けない自分になれるかな?

ってねー。気になっちゃいますもんねぇ。

だからねー。
ま、言葉のあやとして「悟り」という言葉を使いますが、
問題を解決したいから「悟り」たい!って思ったとしたなら、
もうこれ、延々と回る回し車の中を走りつづける!
なんてことになるわけです。

 

この回し車の中でのダッシュから抜け出るには、
それこそ、走るのをやめて止まってみる。
っていうことが必要なわけですが、
問題があるからなんとかしたい!から始まってる場合は、
止まるってことは、今抱えている問題があるまま止まらなきゃならない。
なんていう風に思っちゃいますから、
それだったら、「悟り」なんて意味ねーんだよ!ってなことで、
やっぱり止まることも出来ないわけです。
だったらもう、走れなくなるまで走るってのも一つの方法でして、
いわゆる求道者向けのはたから見てて厳しそうな修行って、
もしかしたら、この走る力を使い切ってもう走れないところまで追い込もうとしとるんじゃなかろうか?
なーんて思うんですよね。

もう、これ以上走れない・・・。
ってなったら、止まらざる得ないですからねー。
そこに追い込もうとしてるんやなかろうかと、、。

まあ、それはそれで良いと思うんですけどねー。

でも、そんなんキツすぎますやーん!
って方は、これ以上走れなくなるまで追い込むよりは、
止まりやすくすれば良いんじゃないん?
って思うんです。

問題の方をある程度軽〜くして、
走るほどのことじゃない。
くらいにしてから、チョイチョイって止まってみたら良いんじゃないん?
ってね。

とはいっても、やっぱり人ってどこかで、
止まることは「死」を意味するといったような観念もあったりするので、
中々止まるのって怖かったりするんですけどね。

でも、走るも止まるも、実際に足を動かしているわけじゃないですし、
それって、イメージ内のことですからねー。

しかも、毎晩、寝てますやん!
つまり止まってますやん!

ってことですのでね。

悟りってね。
それが問題を解決することにはならないんですよね。

なぜなら、「悟り」に問題解決能力ないからなんです。
あえて言いますと、それは、問題そのものがないという気づきであり、
そして、問題があっても良いじゃんという許しであり、
更には、問題を解決しなきゃならない!と思ってるなら、
それもまた自然な成り行きじゃん♪
っていう許しでもあるんです。

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