Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探究とは許しの旅

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ストーリーは何かしらの判断とともに発展を繰り返していくわけなんですが、

どうしても強くストーリーに巻き込まれてしまう場合。
それは判断に対しての恐怖感が強いからなんですよねー。

この恐怖っていうのは、「自分が損なわれる」という事に対しての恐怖なんです。
そして、その根っこにあるのは死の恐怖なんですよねー。

結構この辺は複雑で、
生きたい!という思いと、恐怖がぶつかり合ってる場合もあるんです。
変な話なんですが、
自分がやりたい好きなこと。オモロイこと、自分を生きたい!という思いを
「そんな好きなことやってたらあかんよー!」なんていう恐怖が足止めするくせに、
その恐怖にずっと従っていたとしても、これまたオモロイことをやらない事によって損なわれる自分という恐怖の衝動が起こってきたりするわけで、
「好きなことをやりたーい」と、「でも怖ーい」がぶつかって延々とストーリーがリピートされてる場合もあるんですよねー。
まるでプログラムのバグのように思考のストーリーが延々と繰り返されちゃうんです。

また、恐怖が強すぎる場合は、この恐怖をなんとかするために死のうとするパターンさえもあったりもするんです。

 

僕らが窮屈さを感じるのもまた恐怖によるものだったりします。
そして、そこから解放されようとして、探求が始まるわけですが、
この探求の旅って、許しの旅でもあるんですよねー。

判断がストーリーを生じさせるんです。って書きましたが、
この判断による結果が「ダメ!絶対!」となっている間は、
強くストーリーに引っ張られます。
なんとかこの「ダメ!」を解決しなきゃいけませんのでね。
「絶対にダメ!」って思ってますから
「そりゃ何とかしなきゃならない!」がその判断に応じて出てくるわけなんです。

この判断に伴う深刻さがリアリティ感となり、ストーリーにも引き継がれます。

そして、ストーリーにリアリティを感じるわけなんです。

さて。
ここまで、まるで恐怖ちゃんのことをまるで悪者のように書いちゃいましたが、
この恐怖ちゃんは決して悪い子じゃありません。

この子の本質は愛そのものでもあるんです。

なので、この恐怖を抑え込もうとすることもまた、
自身の愛を抑え込もうとすることと同様になっちゃったりしますので、
これまた抵抗感という摩擦を生むんですよね。

探求の旅って、この恐怖を手放すことだと言われていますが、
それは抑え込んで無いものにすることじゃないんですよねん。

恐怖ちゃんは、自身を守るために出てきてる一つの働きです。
その働きは完全に許されているものなんです。

なのでね。ちゃんと本来の姿のままに扱ってあげたらいいんです。

真理とか、真我とか、ありのままってね。
別に大げさなものじゃないんですね。

目の前にどでかい石があったとしてね。
その石に向かって、いや、こんな石は絶対にない!絶対にないはずなんだー!
って言いながら、前に進もうとしてもゴンゴン石にぶつかるじゃないですか。

ありのままというのは、ここに石があるよねーってね。
石があることを認めてあげるってことなんですよね。

恐怖ちゃんがあることはすでに許されています。
そしてそれは愛そのものでもあります。

なので、「そのまんま」のものとして扱ってあげるんです。

それが、愛でてあげて許してあげるってことなんです。

恐怖から起こるストーリーを認め受け入れることとはちょっと違います。
これはストーリーですので、ちゃんとストーリーとして扱ってあげるんです。

そやって、愛でて許してあげるまで、ゴンゴンぶつかります。
目の前のでっかい石と同じようにね。
あることを認めてあげることで、本来の姿を現してくれるんです。

そうやって本来のままにしてあげること。
それが探求の旅であり、
すでに許されているものを本来のままにしてあげるという、
許しの旅でもあるんです。

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