Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

風が吹けば木の葉が舞う。

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木の葉に風が吹き込んできたら、木の葉は舞い上がりますよねぇ。
深い意味はなく、単純にね。

そしてそこには、木の葉と風の境界線はなく、木の葉はまさに風と一体ですし、風もまた木の葉と一体となり吹いておるんですよね。

ここに文句のつけようはないと思うんです。

そんな感じで、僕は何かを知りたいと願い、
願うからわからないことがある。
つまり何かが足りないと思うわけです。

この辺の原理は、風が吹いて木の葉が舞うのとおなじような現象でしてね、
それは自然の表現なんです。
なので、それで良いわけなんですよね。
それで自然なんです。
もう完璧だったんですよねー。

 

嫌な思いをしてイラっとする。
それを何かにぶつけたくなり、またそんな自分を嫌悪する。

そんな自己嫌悪もそれで、すでに許されているんです。

何かやな事を受け入れられる自分にならなくてもよかったんです。

完全な静寂に身を委ねるのも良いんですが、
その体験に依存しなくて良いし、そう言った体験の檻に入り込まなくてもよかったんです。

僕らには色々な思いが湧いてきます。

お金持ちじゃないとダメだ。
気分良くいてなきゃダメだ。
有能じゃないとダメだ。
やせてないとダメだ。
一人ではダメだ。
みんなと一緒じゃないとダメだ。
みんなと一緒じゃダメだ。
とかね、。

物質的な欲はもう良いんだよ。
それよりは精神的なもの。
例えば、
波動が高くなきゃダメだ。
常に清らかな状態を保たなきゃダメだ。
覚醒の状態を維持しておかなきゃダメだ。
宇宙の意識でいなきゃダメだ。
自分の本質で生きて行かなきゃダメだ。

みたいなね。
あまり詳しくないですが、こういった思いが湧いている方もおられるかもしれません。

これらの思いってね。全体の中のほんの点のようなものなんです。
僕らが窮屈に感じたりする時は、ある種の観念にがんじがらめになってる時だったりします。
それは、これらのほんの小さな点を枠として、全体である自分を針の穴ほどの小さな点の中に閉じ込めちゃってるからなんです。

そりゃ窮屈だわ。
って話なんです。

窮屈だからより広い枠を求めるんです。
より高い自分って感じでね。

でもどこまで行っても観念は観念であり、点にすぎません。

なので、満たされることはないんですよね。
この満たされない仕組みが渇望の仕組みなんです。

その思いに対して常にアップデートを繰り返したところで、その旅が終わることはありません。
ネズミの回し車のようなものなんですよねん。

そしてこれらの点に、価値の高さ、低さもありません。
物質的な欲よりも精神的な望みの方がより高尚だということもなければ、
精神的な欲よりも、物質的なことに目を向ける方がより値に足がついてて価値があるわけでもないんです。

そうなってくると、
「じゃあ、何を信じ何を拠り所にすればええのや??」
「何が正解なんや??」
という思いも湧いてくるかもしれません。

でも、実際に僕らが何かを掴んだこともないんですよね。
掴んだていにしてるだけで。
そして、それらに価値の高低もありませんので、
もう楽しく好きにすれば良いってことになるんです。
正解も間違いもないんです。
正解がないから好きを表現すればそれで良い!ってことなんですよね。

「そっかー!」
「今までの苦労も許されていたし、遠回りだと思っていた道は最短だったし、
それ以外の道もなかったんだ。」
「好きなことをすることも許されてるし、好きじゃないことをやってたことだってまた許されちゃってるんだー。」
「そして、それで良いんだー」ってことなんです。

何も掴んでなかったことを知ると、全体のまま全体としてあったことも明らかになるんです。

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