苦労を支え続けてきたパートナーに対してね。
ちょっと自分が上手いこといったらすぐに見限って、他の人に走る。
なんてねー。
なんかちょっと、カチンときますよねぇ。
支え合ってた時代の二人を知っていたら、
なんか祝福できないですよね。
まあ、それと似た感じのことをね。
自分に対してやってたら、やっぱりそれって祝福されないんと違いますのん?
ってことなんですよ。
どういうことかと言いますとね。
もう自我ちゃんなんて必要ない!
卒業したい!
思考や感情もいらない!
こういうのを捨て去って新しい自分に生まれ変わりたい!
みたいなね。
そういうのって、ちょっとあんまりなんじゃないのん?
っていう話なんですよね。
恐怖感や不安感。
怒りに悲しみ。
これらの感情って、
「そんなんいらんでー!」
「邪魔ですわぁー。」
って思っちゃいがちなんですけどね。
でもこれらの感情って
自身を守ろうとして、培ってきた結果出てきているもんですのでね。
そうやって今まで守ろうとしてくれていたのもまた、自我ちゃんなわけです。
この思いが正しいとか間違いとか、
起こるべきじゃないとか判断する以前にね。
こういう思いってとってもありがたいものやったんやねぇーってね。
まずは、いたわってあげないとね。
ピシャッって、それを抑え込もうとしたり、
自我ちゃんを裁いたりしちゃったとしても、
その厳しい裁きの声を一番大きな音で聞いているのも自分だったりしますので。
結局自分で自分を鞭打って、自分で痛いからなんとかしたいんですけど〜って嘆くことになっちゃったりするんですよねん。
常に自分が自分に対して耳元で文句ばっかり言ってるのだとしたら、
そりゃ疲れちゃいますよね。
なんとか文句が出ない自分に変わろうとするにも、
すっかり意気消沈しちゃいますよ。
鞭打つのも自分なら、祝福するのも実は自分なんです。
(厳密には行為者はいないんですけどねー)
変わったらいつか祝福されると頑張っても、
ダメだと思ってる限りは祝福だってされないんですよねー。
やっぱりね。
感謝して、愛でてあげる。
話はそれからなんですよね。
愛でてあげるのに条件はいらんのです。
条件をつけちゃうと、条件に逆に支配されちゃうんですよね。
なんとか自我ちゃんは愛でてあげられるけど、
でもまだやっぱり、周りの人は気に食わない。
なーんて思いもまた、出てくるかもしれませんけどね。
それもまた、愛でてあげると、
その周りの人もまた自我ちゃんの投影なんだっていうことも見えてきます。
愛でてあげる。話はそれからなんですが、
自我ちゃんの投影をも愛でてあげられたとしたなら、
もうこの話はおしまいになるんですよね。
スタートはそのままゴールでもあるっていう感じです。
あ、そっか。
なら良いんだ!
ちゃんちゃん♪
なんです。
投影だからと言って、誰かの理不尽さを逆らうことすらせず、愛でて許してあげるってことじゃないですよ。
んなもん毅然と逆らってやったら良いんですけどね。
ただ、そういった投影が起こってる自分を愛でてあげるんです。
愛でてあげられますとねー。
結局それも自分の中にあったんやーんってなってくれます。
人だけじゃなく、
周りの木々も、空と大地も、
喧噪の音も、広がる静寂も、
全てが自分の中で響いていることに気づきます。
そうなるともう自分の中という観念も役割を終えるんです。
そして残るのは全てです。
ここに行為者というものはなく、責任者もいないんです。
鞭打つ誰かも打たれる誰かもいないんですね。
するともう探すべきものはなくなるんですよねー。
探さなきゃもうココだけが残り、探し物とそれ以外の全てが既にココにあるんです。
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