カーッカッカッカ!
おはようございます。タクさんです。
いきなりアシュラマンの笑い声で失礼いたしました。
(※アシュラマンというおじさんは、カッカッカと笑うんです。。。)
さて、
僕が初めて読んだ漫画は当時大体の小学校の図書館に置いてあった
「はだしのゲン」です。
このはだしのゲンなんですけどね。
よく「ううううう。」って泣くシーンが描かれてるんですけどね。
この「う」という字が「ラ」に見えちゃってたんですよね。
なので、なんで悲しいシーンはずなのに鼻歌を歌ってはるんやろう??
シュールすぎるやろ。。。
って不思議に思ってました。
うん。今見ても、「ラ」に見えるわ。。。
はい!話は変わりますが、
僕らって知らず知らずのうちに「~であるべき」みたいな思いに縛られちゃってたりするんですけどね。
なんで「~であるべき」なのかといいますと、そうでないとなんか怖いことが起こるって思ってたりするからだったりするんですよね。
怖さっていうのは「自分」という観念が損なわれることに対しての恐怖だったりするわけです。
なので、なんでもかんでも、「~であるべき」の範囲内で片付けようとしちゃったりするわけです。
やりたいことやればええですし、オモロイことやればいいだけなんですが、
とはいっても、これは金になるのか?とか
人に後ろ指さされちゃったりしないかしらん?とか、
そんなことしたら嫌われちゃうかも??
ってね。
どうしても「~であるべき」の範囲を逸脱することに対して怖く感じちゃったりするんですよねー。
なのでなんとかその範囲内で自分の天命はどこにあるのか??なんてね。
探そうとしちゃったりするわけなんですが、
まあ、その範囲がもう恐怖からきているものだったりしますのでね。
しっくりこなくてどこまで行っても自分探しが終わらなかったりするんですよね。
ま、恐怖っていうのは自我ちゃんの正当な働きですので、完全に恐怖を克服することってできないですし、しなくてもいいんですが、
あまりに大きな恐怖がある場合は、もしかしたらないはずの恐怖の物語にからめとられてはせんやろか?ってちょっと見てみたら良いと思うんです。
恐怖からくる「~であるべき」の範囲に閉じこもってますとね。
当然不自由感を感じますので、今度はその不自由感に苦を感じたりするわけですよねん。
見てみると、その恐怖は見当違いの恐怖だったりしますし、
まあ、恐怖ちゃんも正当な働きとして起こってるわけですから、一緒に居ててもいいよー♪ってね。
「よっ!今日も張り切っとるな!」ってな感じで労わってあげたら、
その恐怖を何としてでもやわらげなければならない!
っていう「~であるべき」も行き場を失って行ってくれるんです。
「恐怖は起こらないように対処するべき」
「恐怖のない状態でいるべき」
っていう「~であるべき」っていう範囲に対してさえ、自分を閉じ込めなくていいんですよねー。
そうすると、恐怖ちゃんも役に立つ単なるシグナルとして機能してくれるんです。
で、「~であるべき」という範囲の中からちょっとずつでも良いので抜け出してみて、
恐怖からくることじゃなくて、湧き上がってくるオモロイの方にに乗っかってみたら良いんですよね。
また、そのあたりで起こりがちなのは、
自分は自由を楽しんでいるのに、周りから「~であるべき」を押し付けられる!
という風に感じちゃったりすることだったりします。
それもねー。
結局は自分の投影だったりするんですけどねー。
やっぱりどっかで「恐怖はあってはいけない」という、
「恐怖は抑えこまれているべき」という「~であるべきちゃん」が出てきてるだけなんですよね。
押し付けられてこられたとしても、
あー恐怖ちゃんがやってきてるんやねー。カワイイねー。
って可愛がってあげたら良いですし、
だからといって、押し付けられなきゃならないという事でもないので、
はいはーいって流してあげたらいいんですよね。
みんな怖いんだねーってな具合でね。
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