全体が絶対的にある。
それは、ある以前にあるんですね。
変な話ですが、あるとか無いといった判断以前の話なんです。
ま、なんていうか確かめるまでもない。
っていうことであり、確かめる誰かが必要じゃない。
って感じです。
そこには、「私」というものもなけりゃ、「私の〜」もないんです。
何かがより素晴らしくて、他方はそれに劣るというものもなく、
どっちかがより意識レベルが高くて
他方は意識レベルが低いといったものがあるわけでもないんです。
また、この全体性を感じられる場所がどこかにあるというわけではなく、
もうすでにあるんです。
ここじゃないどこかってのはないんですよね。
その全体性は、絶対的にあるんです。
これは、どういうことかと申しますと、相対的ではないという事なんです。
また、相対と絶対が互いに表と裏の関係のように存在してるというわけでもないんです。
相対と絶対が互いに同じ立場で存在しているんじゃなく、
絶対の中で、相対という実体のない蜃気楼のようなものを見てる間だけ、
そこに分離があるかのような錯覚があるだけなんですよね。
その相対からくる分離もまた、絶対的な全体から一切離れておらず、すでにある全体そのものなんです。
ま、そんな風に聞きますと、
じゃあ、自分の中にいる「私」。
また、起こってくる思い。
その思いの中でも、解決法が定まらない限りずっとこびり付いてくる、
あってはならんという思い。
こういうのを取り除けば、この相対性を掴もうとするクセも和らいでいくんやないのかなぁ。
って考えがちだったりするんですけどね。
それらもまた、相対の観念の中で出てくる思いなんです。
そして、その相対の観念の中で出てくる思いは、誰かが一掃するできるものでもなかったりするんですよね。
ただ、その相対、その分離感もまた全体の表現そのものとして許し受け入れられた時、その機能を保ったまま、その分離感への執着が失われていくんです。
また、許し受け入れるっていう誰かがいるわけじゃなく、
これは、最初っから許し受け入れられていたということを単に発見するだけなんですねー。
なので、許していこう!受け入れていこう!と「する」ことでもないんです。
そういう行為っていうのは、ある意味、一種の呼び水としてやって見ても良いかもしれませんが、
最終的には、
「んなもん受け入れられるわけないやん!」
っていう思いがあっても、それがあることさえ、
「オッケー!」
って感じなんですよね。
なーんや。
だったら、最初っからなにも許すものなんて無いじゃないかー!
ってことなんですがね。
うん。
実際にその通りなんです。
それどころか、何かを許したり、何かを行為する行為者自体がもうおらんわけです。
あなた自身もまた、絶対的な全体性そのものなんですからねー。
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