Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

愛だけを美味しく頂きましょ。

f:id:takuteto:20180224010417j:plain

好きなことをすればええねんでー。っていうのはホントその通りやとおもいます。
まあでも、いろんな事情で、好きだけをするのは難しい場合もあると思うんです。

そういう場合でもね、ちょっとずつなら出来ると思うんですよね。

なので出来る範囲でちょっとずつやっていけばいいと思います。

別にそれがお金にならなくても良いですし、何かのためにならなくても全然良いんです。
ワシがおもろければそれでもう完成されとるんや!

くらいにおもとったらいいと思います。

あとは、その好きなことをちょっとずつでも、発表していくのは良いと思います。
今はブログやSNSで発信しやすいですからねー。

 

でね。
大体そういうことを始めていくと、
誰かからの批判が飛んでくる場合ってあると思うんですよねー。

批判って大概の場合が批判してる本人の恐れやコンプレックスから来とる場合がほとんどですのでね。
あー、この人こういう恐れやコンプレックスがあるんやなー。
まあ、知らんがな、それはワイの問題やなくて、あんたの問題や!

てな感じでスルーしてたら良いと思うんですよねん。

特にブログなんかで他のブログを批判してるなーんて人は、大体は僻みですからね。
もっともらしいこと書いてたりするけど、
うん。結局うらやましいんだね。
って感じですので、目に入っちゃった場合は、ささっとはらって、
せいぜい精進したまえ!ってなことでスルーしてもう二度と見なきゃいいんです。

目にゴミが入ったらすぐに取り去るじゃないですか。

飲む水だって、綺麗な水は飲みますが、誰もわざわざ泥水なんて飲みませんよね。

言いたいだけの批判や、僻みからくる批判なんていうのは、耳を貸さなくてイイんです。

でも、批判にも耳を傾けなきゃいけない批判もあるんじゃないのん?
って思うかもしれませんけどね。

たしかにそういう場合もあるかもしれません。

ただ、耳を貸すに値する批判の判断基準は、

愛情を持って向けられているものかどうか?

「おい、そこに愛はあるのかい?」

ってことになります。

愛のないパターンの批判は、単なるその人のコンプレックスの吐露にすぎないので、ほっておけばいいわけです。

あ、これは愛のあるアドバイスなのかもしれない。
って思ったなら、

ホントにその行為が、自分の中のオモロイに正直になっているのかどうか?
自分の喜びなのかどうか?

を確かめてみたらいいと思うんです。

もし、その行為が恐怖を紛らわすためだったのだとしたら、
あれ?もしかしたらこれはオモロイに似せた恐怖感なのかもしれないぞ?

って確かめてみたらいいんです。

僕らは恐怖に支配される筋合いはありませんのでねー。
その辺りだけを確かめて、
うん。やっぱりオモロイわ。やってみたいわ。
って思うのなら、
愛のあるアドバイスに対しては、その愛の部分だけをありがたく頂戴したら良いんですよねー。

愛がある批判だったとしてもそれが正しいとは限りませんし、愛があるから聞き入れなきゃいけないわけでもありません。
その愛だけをありがとねーって感謝して受け取ればそれでいいんです。

そして、それがホントにオモロイのか?喜びなのか?は、
自分の中のワクワクでしか判断できませんのでね。

そのサインをしっかりと見つめていれば良いんです。

▼facebookページはこちら。毎日ひとことアップ中!
もしよろしければ、「いいね」をして、フォローをお願いします。
質問などがありましたら、facebookのメッセージからどうぞです〜。