Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

共同幻想

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僕らって個々人があらゆる幻想を持っていたりするわけなんですがねー。
その幻想が他の人やその集団と共有されている場合、その幻想は共同幻想となります。

共同幻想っていうのは、
宗教もそうだし、
国家のルールというのも共同幻想の一つです。

他にも
経済の仕組み。
社会のルール。
会社の仕組み。
なんかもそうですし、

空気を読む。
流行りの忖度(そんたく)というのも、共同幻想を元に成り立っております。

 

そして僕らは本能的に、自己を防衛するという本能を持っておりますので、あらゆる共同幻想はそのコミュニティに属するメンバーの自己を防衛する働きも同時に担っていたりするんですよねん。

それは、個人の安全であってり、個人の承認欲求だったり、利害関係だったりするわけなんです。

ま、そう言ったわけで、共同幻想とは、基本的に自己を防衛する仕組みも含まれた幻想なので、それを壊そうとする人がいるとそれはこの共同幻想守られてる人にとっては驚異となるわけです。
命の危険に近ければ近いほど、その驚異は大きくなるわけですね。

なので、時にとあるコミュニティが別のコミュニティとの間に起こる利害関係によっては争いになったりもするわけです。

その幻想が信条のような場合だと、宗教の争いになったり、安全保障を担う国家同士だと戦争になっちゃったりするわけですねん。

また、この共同幻想は、未来永劫続くものじゃなく、寿命があります。
ずっと運用してますと、どこかに滞りが生じてくるんですよね。
そしてずっと滞っていると、水と同様に腐ってくるんです。

例えば経済の仕組みであっても、それが滞ると仕組みの刷新がせまられます。
国家のルールも同様です。

満遍なくメリットがメンバー内に行き渡っていると上手く回りますが、どこかで滞ってくるとメリットが特定の人に集中してきて、行き渡らなくなった人はデメリットを被ることになります。

そうすると、最初は自己を守るものだった共同幻想はその機能を失い始めるんです。

そうなると新しい価値観が誕生し、価値観、ルールが変わるんです。
パラダイムシフトがおこるんです。

国家だとみんながメリットを享受できているうちは上手くまわりますが、権力が集中しだすと、それは滞りとなり、機能不全を起こしはじめるんです。
すると、大体は反乱が起き新しい国家が取って代わったりするわけです。

お金だってルールはどんどん変わってきました。サラリーマンのサラリーというのはソルト(塩)から来ております。その名の通り塩を配っていたのが、鉱物(金や銀)になり、金の預り証にかわり、中央銀行が発行する券となり、、、と変わってきております。

ちなみに僕は、普段は、アップルウォッチを使っておるのですが、もうお出かけ中の支払いは大体このアップルウォッチで支払うことができちゃいます。
電子マネーの仕組みが入っておりますので、時計をピッとかざしておしまいです。
楽です。
世界的にも、もう電子マネーの導入が進んでおり、日本はちょっと遅れてますけど、そのうちもっと増えてくるでしょうね〜。

株券がなくなったのと同様に、お札だってなくなってくるかもしれませんね。

ちなみにお金は今は国家がコントロールしてますが、ちょっと前までは国家がコントロールしてたわけじゃありませんでした。国家が中央銀行を定めそれをコントロールしだしたのは最近なんですよね。でもこのルールももしかすると変わってくるかもしれません。
なんせ今は、上位8人の大金持ちが地球上の半分の下位36億人と同じくらいの資産を持ってるという報告もあります。もう滞りが始まってると言えるかもしれません。こいつらが使ってる金を使うのをやめておれらは別のルールのお金を使おうぜ〜ってなってもおかしくないと思います。
仮想通貨なんてのも登場してきていますしねー。

また、インターネットの登場で個人の生活や価値観も変わってきてますし、AIなどのテクノロジーの急速な発展で、社会や仕事に対する向き合い方もどんどん変わっていくでしょう。

ま、そんなわけで、全ての共同幻想には寿命があるんです。自然、そして全ては諸行無常しており、常に変化しています。変化によって常に代謝しているんです。
この自然の流れは人の中で起こってる価値観や経済システムも例外ではありません。
代謝を阻害する滞りが起こってくると寿命を迎える時も近いというわけです。

同時に、個人が感じるメリットも移り変わっていきます。
武士なら名誉をとても大事にしていたこともあったりしますし、お金が大事なときはカネさえ払えばなんでも手に入れられるってことになります。
最近はモノの価値もさがってきていて、それよりは個人の精神的な充実が注目され始めてきてるような気がします。
断捨離なんてことも流行ってきてますし、高級車やブランド物がダサいなんて価値観も生まれ始めてたりしますからねん。

ま、いずれにしても、個々人が持ってる幻想も、
コミュニティが共有している共同幻想もね。
文字通り幻想なんですよね。

考えや信条にしたって、共同幻想を生み出します。
物質的な考え方も共同幻想なら、スピリチュアルのコミュニティーなんかで共有される考え方もまた共同幻想なんですよね。

僕らは得てして、古くなった幻想よりもパラダイムシフトを起こす新しい考え方に価値を感じやすかったりしますが、

個人が持つ幻想、コミュニティがもつ幻想。
そして、パラダイムシフトとして新しく起こってくる幻想。
これらに価値の差はないんですよねん。

全てが同じ価値であると言えますし、
同じ価値だということは、同時に全てに価値は存在しないとも言えます。

そんな中で、僕らはより価値がありそうな幻想を探そうとしちゃったりするわけです。

非二元だって、1つの信条になっちゃったら、それは幻想です。
幻想とは分離の概念が土台に存在します。

この分離がないと、物語が展開できませんからねー。

でも非二元っていうのは信条でも考え方でも無く、
本来の意味は、この分離のなさを指し示しているだけなんです。
そこに決まりやルールや信条はありません。

人という生き物は幻想をつくる本能を持っていますので、何でもかんでも体系立てて概念にしがちです。
この幻想をつくる事自体には何の問題もないんですけどねー。

そんなあらゆる幻想が幻想だと見抜かれた時、その幻想や探求に対する深刻さが失われるんです。
深刻さだけが失われるだけですので、幻想を作り出す本能自体がなくなるわけじゃありません。単に見抜かれてるだけなんです。

見抜かれながらも幻想に遊べばいいですし、それでいて幻想の深刻さに縛られなくても良いんです。

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