Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分を過小評価しとるっていいますけど、過大評価すぎる場合もあるのでは??

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おっはよーございます。タクさんです。
良くこのブログでも、
自分を過小評価しとるねん。
みたいな話を書いてたりするんですけどねー。

中には
「自分を過小評価っておっしゃいますが、中には過大評価してはる人もいるんじゃないでしょうか???」

って思われる方もおられるかも知れませんねー。

でもね、それも過小評価なんですよねー。

自分なんてダメだ。みたいな思いが過小評価やっていうのはわかりやすいんですけど、
妙な誤解に基づいた解釈でもって自分を大きく見せる!ってのも同じことなんですよねー。

 

「わしゃ天才やー!」
「ワシはイケメンやー!」

みたいなのとか、

「俺は年収がこんなに沢山あるから偉いんだー!」
とか、
「ウフフ、アタシ、特殊な能力を持ってるんざますの。」
「特別なんですの。」
みたいなのとか、

「私は悟ったのだ!エライのだ!」
とか、

「私、とうとう五次元に達したみたい。」
みたいな???なのも、

やっぱり、過小評価なんですよねん。

なんでや!
天狗になっとるやないかー!

んなもん過大評価やないかー。

って思われるかも知れませんけどねー。

ここで僕がゆうてるのは、
いかなる条件にも、当てはめちゃうと、そりゃあ過小評価やで。

っちゅうことなんですよねん。

全ては無条件に在りますのでね。
それをワザワザ条件で縛るっていうのは、それだけ小さく収まっちゃってますやん。
っていうことなんです。

天狗になったり、、また時に、その鼻をへし折られたりって、
色々とあるでしょうが、
それはそれで良いんですけどね。

どんな条件であっても、んなもんの檻に入り込まなくても良いやーん。
って事なんです。

無欲で控えめになったなら、それで良いですし、
お金大好きー!ならそれで良いわけです。

そのどちらかが、良くて、どちらかが悪いっていうことでもありません。

好きにオモロイを表現すれば良いわけですが、そこに条件は最初っからないわけですからね。
無条件にノリノリで乗っかってたらええわけです。

どんな条件であっても、それをあると見なした時、
そこに見なされた現実感が生じてきて、
その現実感をもった物語が現れます。

そしてその範囲の中に全てが収縮されて収められるんですね。

もちろん、実際に何かが何かの中に収められるわけでは無いんですが、
そう見なされるわけです。

で、そう見なしといて、その見なされた世界に窮屈さ、収縮さをかんじてたりするんですよねー。
そこが、独り相撲っちゅうわけなんですけどねん。

もともとあるのは、色付けされていない無条件さです。

その無条件さの中では、どんな条件も、
それそのものを分断し狭いところに押し込めるものでしか無いんですよね。
つまりは、あらゆる条件が分断になりますので、
実際よりは過小評価しとることになるわけです。

ただ、これは条件を否定するってことでも無いんですけどねー。

ややこしいことに、条件を否定すると、これまた、
条件付けはダメー!っていう条件を生み出しちゃいますので。
これまた、過小評価でございます。

単に、無条件さのそれを知ると、条件も条件ですら無くなりますんでね。
どんな条件に当てはめなくても良いし、当ててみて楽しんでもいいですし、
どう思ったとしても、「それそのもの」は減るもんじゃなく、干渉をうけることもありませんしねー。

そんな中で、起こってくる表現に溶け込んで、表現を遊べばそれで良いんですよねん。

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