Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

イノチが宿るところ

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おっしゃー!謎が解けたで〜!
って時はなんともスッキリしますよねぇ。

望みが叶ったー!
なんて時も、安心感や喜びがあると思います。

スッキリしたし、安心も喜びもあるわけですから、
じゃあ、もうそれでええやん。
めでたしめでたしやん?

って思うわけですが、
大概は、また、新たな安心感や喜び、スッキリを求めて
新たな謎や望みを求めていくわけです。

もちろんねー。
謎解きを遊ぶのも望みに向かって進むのも
良いんですよ。

やれば良いんです。

でも、それらが叶わなかったとしても、
スッキリも安心も喜びも、
もうすでにココにあるんです。

謎解きや望みが叶った時のスッキリ感って、

謎が解けていない〜。やら、望みが叶わない〜。
って思いから引き起こされる、足りない感が、
無くなったから、スッキリしておるんですよねん。

この足りない感が、色々と悩みを作り出しておったりもするわけですが、
それは、足りないのを埋めるよりも、その足りないという思いのウソさを見抜いちゃう方が、手っ取り早いんですよねー。

しかも、
望みや謎解きっていつでもうまくいくもんやありませんしね。

 

ありのままには足りないもんは最初っからないわけです。
でも、このありのままってね。
結構退屈に見えるんですよね。

だからあれこれ考えたりするわけです。
そして、考えや思考は一瞬でリアル感を作り出します。

するとその思考が現実として振る舞うんですよねん。

思考が現実化するっていう言葉があったりしますが、
実際のところは思考が現実として振舞っとるんです。

ホントは、単なる思考にすぎないわけなんですけどねん。

僕もよく、思考を見てみたらええやん。
なんとかしようとせずに、そのまんまにしておいたらええねん。

とかゆーてますけど、
これって、思考の中にある問題をなんとかするんじゃなくて、
単に置いておくっていうことなんですよねん。

置いておくには、まずはそれが単なる思考なんやで!
ってことに気づかないと始まりませんのでねー。

なので、まずは見てみると良いんです。

置いておくと、そこに残るのは、なんとも言えない退屈さが残ると思うんです。

で?
って感じになるかも知れません。

その「で?」っていうのも置いておくんです。

別に目を閉じて静かにしなきゃいけないわけでもありませんし、
静かな場所に行かなくても大丈夫です。

やかましいところでも、満員電車の中でも、どこでも構いません。

あらゆるものが起こっては消えていきます。
音も、景色も、思考や感情も、身体の感覚も、、、。
そして自分という観念も、、、。

起こっては消えていくものには、もともとなんのレッテルもありません。
音ですらなく、景色ですらなく、思考や感情ですらなく、身体ですらなく、
そして、自分ですらないんです。
単に、起こり、そして消えていきます。

その背後には、イノチの源を感じられるんです。

実際に背後にドーンと控えてるわけじゃなく、起こっていることとイノチの源は完全に同じなんですけどね。

源と表現が同時にあるんですねー。

表現は常に変化し、そこに分離はないんです。

退屈さは見せかけの幻想でね。
この幻想が解けた時、
このエキサイティングで静寂な「ありのまま」が姿をあらわすんです。

音、身体の感覚、感じる温度。
その全てが生命の表現です。

思考の中身にはその生命は感じられません。
ただ、思考が湧き上がってくるというところはイノチそのものなんです。

つまり、思考や観念のストーリーは、実際は無味無臭の幻想のようなもので、それを湧き立たせてるところにイノチが宿ってるんです。

僕らはイノチそのもので、そこから離れたことはなく、
普段は退屈なふりをして隠れてるんです。
ですが、思考の無味無臭さが見抜かれた時、そのダイレクトな生命感がムクムクと蘇ってくるんです。

それは分離もなく、時間や空間に制限されるものでもなく、死んだ事も生まれた事もなく、全てに宿ってるんです。

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