Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

集合意識ってなんですか?

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ほい。
おはようございます。
タクさんです。

集合意識っちゅうもんがある。
みたいなお話がありますよねぇ。

スピ系でもよく言われてますし、
たしかユングだったかな?
彼もそういうもんについてゆーてはったらしいです。

まあ僕も詳しい定義は知りませんので、
あまりいうことはないんですけど、
これについて僕なりの勝手な解釈を書いてみたいと思います。

うん。

この集合意識っていう話はね。
なんていうか、油断するとすぐにファンタジーっぽい解釈に走ってしまうことがあったりするなー。
なんて思ったりしてるんですよね。

そのファンタジーを売りにしてはる人もいてますしねぇ。

シンクロや!
テレパシーや!!

みたいなね。
もちろんそういうのも起こるんですけど、
それって決して珍しいもんやないんですよね。

それも意識っちゅうのがなんなのか?みたいな事が分かれば、
そらそうや!ってなるんです。

そもそもねー、意識ってなんやねん?っちゅう話なんですけど、
これって結構、
人によって、
またこの言葉が使われる場面によっても
指し示される事が全然違ってくるんですよね。

考えている思考を指す場合もあれば、
単に寝てなくて、おきている状態のことを指す場合もあります。

注意を向けている事を指す場合もありますね。

まあ、意識に当てはめられる定義が色々あって、その当てはめられる定義も、実体のあるもんじゃないので余計にややこしいんですよね。

これはもう「おしゃこゆん」
という言葉と一緒です。

また、わけのわからんことを書き始めよったでこいつは。。。
とお思いの方もおられるかもしれませんが、
そうなんです。
「おしゃこゆん」という言葉には一切の意味はありません。
僕が今、勝手に考えた単語ですので。。。
なにを「おしゃこゆん」だと定義しても自由です。

意識っていうのも、それと同じようなもんなんですよね。

まあ、それ言い出すと、全ての言葉がそうなんですけどねー。

 

まあ、ただね、
考えが浮かんだり、気分が良くなったり、イライラしたり、
アイデアが閃いたり。。。

そういうことはありますよねー。

モノとしてあるというよりは、働きとして起こるんですよね。
つまりは動きです。

動きというのは、起こっては消えていく現象です。
波のようなものとも言えるかもしれません。

そういった起こったことに関する経験のようなものを意識だと定義するのであれば、
そういった起こることは、まあ、あると言えるかもしれません。


経験があるというより、それも含めて起こってるだけなんですけどね。

でもって、意識だけじゃなく、全てがただ起こってるんですねー。
つまり動きです。

全てなんです。
目の前の石ころも起こってる現象のようなもんなんですよねん。

でね。
この石ころって、自分が生み出した!とは、普通は思いませんよねぇ。

石ころにつまづいたとしても、ああ、この石ころは自分が生み出したんだ。。。
どうすれば、このような石ころを生み出さないようにすればいいのか、、、。

ってなこと考えませんよねぇ。
石ころはただあるだけですのでね。
ただ、起こってるんです。
固体のように見えますが、石ころも常に変化しとるんです。ずっと同じ形であるわけじゃないですからねー。

同様にね。
意識っていうのもただ起こってるもんです。

でもこの、ただ起こってる意識に対しては、
「ワシがやってる!」
みたいな事を感じてたりするんです。
後付けでね。

これはただの勘違いなんですけどね。
この勘違いを握ったままね、
「集合意識があるー。」
なーんて聞いちゃうと、
「集合意識とかいう塊から、自分が何かを取り出してるんやな!」

「それやったら、もっと高次元の何かをひっぱり出すにはどうすればええんや?」

みたいな、妙な解釈が出てきたりもするんですよねん。

そうやなくて、誰ものモノでもない、意識っていうのが最初にあるんです。

それを分離という観念のフィルターをとおして、これは僕の意識で、あれはあの人の意識。
って分けてるだけなんですよねん。

もっというと、意識というものがちゃんと分けられた状態で、最初っからあるわけじゃなく、
石ころと地面が分けられてるわけじゃないのと同様に、

水と波が分けられてないのと同様に、

空気と雲が分けられてないのと同様に、

全てとしてある中の一部を単に意識と名付けてるだけで、

本来は何でもないもの全てが在る。
っちゅうことなんですよねー。

まあ、そういうわけで、
集合意識の「集合」っていうのは、最初っから別に個人個人に分け与えられてるもんやないですよー。
っていうことを意味しとるだけで、そもそもそういうもんなんです。

個別の意識に対して、そこから別のところに集合意識があるわけじゃなく、
最初っから集合意識しかあらへんがな。
って言うことなんですね。

イメージの中でで分けられていると見なしているだけなんですねー。

集合意識という何かが自分以外のどこかにあるということじゃないので、
起こってる意識に後付けで「自分」という観念がくっつき、
その上でその「自分」が集合意識にアクセスしようとしても、
それってナンセンスなんですよねん。

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