Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

大丈夫なんやで

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ブログの記事の数も700を超えてきました。
いやー。よくもこんなに書くことあるねぇ。
って、たまに人ごとのように思ったりします。

だいたい記事についてはねー。
ダダダーって書いちゃって、アップする前にちょこっと見直す程度で、
基本的には書きっぱなしなんですよねー。

なので、自分でも記事の内容は結構忘れてたりします。
だから、おんなじ事を繰り返し書いてたりしてます。

多分、これが長続きの秘訣でしょうねー。
アホっぽく忘れたったら何度もおんなじことがかけてお得!!
っちゅうわけですね!

なので、ブログ書いてる人によっては、質問をする前に過去記事も読んでからにしてくださいねー。
って言う方もおられますが、ぼくのブログに関しては、質問やメッセージをくれる場合に過去記事を読む読まないっていうのは、一切気にしなくても良いですよーん。
っていうスタンスになっております。
どうぞ近所のおっちゃんに挨拶するくらいの気軽さでよろしくおねがいします。

 

さてさて、
そんなこんなで、
色々と書いてきてるわけですが、

結局のところ何が言いたいねん?

と言いますと実は自分でもよくわかりません。

でも基本的には
「大丈夫なんやで。」っていうことかなー?と思います。

観念のいうことを聞かなくても大丈夫やし、
観念が起こっていても大丈夫やし、
自分ってダメだわーって思ってても大丈夫やし、
悲しくても大丈夫なんやで!
っていうことですねー。

でもまぁ、そう聞いても、
「じゃあ大丈夫って思えるようになるにはどうすりゃいいのさ?」
って思いますよねぇ。

「だからその方法を探しとるわけなんですけど?」
ってねー。
思う方もおられますよね。

まあなんで大丈夫なんか?といいますと、
大丈夫じゃないって思いが実態のないただの思い、
しかもその想いはイメージ中にしか無いものであって、
概念的なもんでしかないってのが見抜かれてるからとも言えるわけですが、

「じゃあどうすりゃそれを見抜けますのん?」
って思いますよねぇー。

「せやから探求しとるねん!」
って事ですもんね。

で、
その探求が探求の終わりを拒否しとるんやでー。
って言われても。
それはまあ、そうかもしれんし、わかるけど、
「だからこそその探求の終わりを探しとるんやないかー!」
ってことですもんねぇ。

じゃあどうすりゃええのか?ということについてなんですけどね。

それは、やっぱりそれで大丈夫なんやで。
に戻ってくるんですよね。

つまり、

探求が終わらないなら、それで良いんです。大丈夫。
悲しみがあるなら、それならそれでもうサイコーに良いんです。

そして、「かしこ」でおらなくてもいいんです。

中には、アホでおりたいんですけど、ワタシどうしてもかしこくて、知恵が回っちゃうんです。
賢いから、もうこれは生まれつきでして、、、。
って方もおられるかもしれません。

それならもうかしこでええんです。
大丈夫なんです。

ホントにぃー?
私みたいにこんなにクレバーでも大丈夫なのかしらん♪
って思うかもしれません。

はい。安心してください。大丈夫ですので。

結構それはそれで、アホっぽいですから。。

って事なんですねー。

ま、いずれにしても今のままで、もう大丈夫なんです。
悟ろうとしなくても良いですし、
観念を追い出さなくても、大丈夫なんですねー。

で、大丈夫になろうとさえしなくても良いんです。

大丈夫になろうとしなくて良いってことがね。
ホントに許されちゃうと、

もう許されてるので、
あれ?なんでアレコレグルグルと考えとったんやろう?
そうか、「許されない」としてたから、
なんとかしなければ!
これじゃダメだ!
まだ足りない!
っていうような思考が起こってたんやねー。
って気づくんですね。

で、そこで見抜かれるわけです。

問題の原因だと思われてたものが、原因ですらなく、
原因と結果もペアとなって同時に起こってたんですね。

見抜くのが先じゃなくて、
これで良いんやんっていう許しがあって、それで、明らかになる。
という感じなんですね。

この許しというのは、降参とも似てますが、
ダメだと思うものをなんとか、これはダメじゃないんだー!
って我慢して受け入れるんじゃなくて、
ダメだと思ってるなら、もうそれが起こっとるんやん。
それでええやん。ダメだろうが良かろうが知らんやん。
って感じで受け入れてあげるって感じかもしれません。

許せてあげると、ダメがダメじゃなくなるんです。

するとカラクリが明らかになります。

もうどこまでいっても、「いまここ」しかあらへんのやね。
という受け入れられるんですねん。
そんな中で期待や不安が起こってるわけで、その期待や不安は何かしらの観念を元に展開しとるんやねー。
って、ことなんですね。

どんな観念も、何かを奪ったりすることもできませんので、
どこまでいっても大丈夫しかあらへんのやね。
っちゅうことです。

そして、自分が許されると、
あ、そうなんや自分も観念なんや。
そして、どんな観念も許されとるんや。

何かしらを掴んでそこに自分という観念をくっつけるもんですから、
自分ごととなって掘ってはおけないもののように見えとったんですね。

許されちゃうと、それも本来の姿を表します。

すると、
もう騒ぎ立てる必要もなけりゃ、楽しく騒いでもそれで良いわけか。
ウハッ♪

ってなるわけです。

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