Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

明らかになる時に起こること。

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雨降りの空に向かって、
「コラー!何降ってくれてんねん!あかんぞー!今日わし傘持ってへんのやぞー!」
ってゆーても誰も返事してくれません。
こだまのように響くかもしれませんけど、、、。

で、そのこだまを自分が聞くんですね。
「コラー!あかんぞー!」
ってな感じでね。

で、それを聞いて
「これはアカンやつや!」
とまた再認識するわけです。

自分の言葉を1番聞いてるのも自分なら、自分の思いを復唱してるのも自分やっていうねー。

 

はい。
おはようございます。
タクさんです。

それが明らかになる時、ちょっと照れるんですよね。
ポッとなるというか。

これって、足がつくプールで溺れそうになってて、
あ、立てるんやって気づいた感じに似てるのかもしれません。

あれれ?
大騒ぎしてたけど、大丈夫なんやん。
あら恥ずかしい。

って感じですね。

天気に向かって本気で文句を言うのも、
あ、天気って現象に過ぎないんやん!
って知っちゃうと、ちょっと恥ずかしいですよね。

でも、照れてもすぐにまた大丈夫やわ!
と安心もできるんです。

だって、照れたところでだれかが見てるわけでも無いですからねー。

ポッと照れて、あ、でも大丈夫や!ってちょっと安心する。

なんかそんな感じなんです。

天気も現象なら、それに対する思考もまた現象、そして自分という観念もまた現象。
どんな現象であれ、それらは分割されておらず、優劣もありません。

でもって、自分という現象に理解が訪れるわけでもありません。
「わかりたい!」と言う想念を、現象として現象のままにしておいてあげると、
分割されていないありとあらゆる現象に溶け込まれていくわけです。

で、「それ」が残ります。
「それ」とは現象そのものであり、その現象は源泉そのものなんです。
目の前のありとあらゆる、全ての「それそのもの」が
まさしく探していた「それそのもの」だったというわけなんです。

だから探求は意味を失いますし、そもそも現象は何かを探していたことすらなく、
単に起こっていただけだったんですよね。

ややこしいですね〜。

でも、わかろうとすらしなけりゃ、そのややこしさも無くなっちゃうんですよね。

残るのは、やっぱりシンプルすぎる「それそのもの」なんですん。

チャンチャン♪

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