Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

理由なくオモロく。

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おもしろき こともなき世を おもしろく
すみなしものは 心なりけり

はい。
おはようございます。タクさんです。
ニョホホ。今日は僕のお誕生日です。
二十年+23歳になりました。
気分は23歳くらいな感じですが、あっという間ですね。

さて、冒頭の句は高杉晋作さんが詠んだとされる句でして、
上の句は晋作さんが、そして下の句は、晋作さんの彼女が詠んだとされておる句でございます。

かっこいい句で僕もお気に入りでございます。

ま、ホント面白くしてたら良いんですよねー。
でもって、心をコントロールしようと頑張らなくても良いわけでございます。

 

理由なくオモロくしてたらええんですよねー。
でも不意にね。
「ん?これで果たして良いんだろうか?あってるのだろうか?」
なんてねー。気になったりしちゃいますと、とたんに迷いに引き込まれちゃうわけです。
あってるも間違ってるも無いんですよね。
無いからどれが正解なのか?なんてのも見つからないわけです。

でも、そこで正解探しをしちゃいますと、やっぱりありませんのでね。
延々と探し続けちゃうわけです。

もちろんある種のルール上にはルール上の正解はありますけどね。
そうなるとルールの上ではやった!成功だ!なんてなるわけですが、
次には、この自分が採用しているルールは果たしてあってるのだろうか?
これで良いのだろうか?といった迷いも出てくるんですよねん。

で、やっぱり探求は終わらんわけです。

実際は正解も誤りもありませんので、探求の先に正解があるわけでもないんですよねん。

全ての中で自分という分離を作り出している間だけ何かを捉えることができます。
分離の観念上で捉えられた何かは、その何かを確定させなきゃいけませんのでねー。
レッテルを貼らなきゃいけなくなるわけですねん。

そうやって貼られたレッテルや分離の観念の中に閉じこもっていつしかその不自由感に違和感を感じ出すと、
どこかに究極の真実を求めて探求が始まるっちゅうわけですけど、
その探求の原動力がなんていうか誤解から始まっていて、その誤解が解けちゃうと、真実を探す意味も失われるわけです。

だって、嘘か本当かなんていう分離さえなく、
ウソもホントもどちらもそれが起こってるならそれで良し!
っちゅうことになっちゃいますからねー。

で、やっぱり起こってくるオモロイをオモロく味わってたらええだけってことになりますし、それしか無いんですよねん。

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