Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

無条件な素晴らしさ

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かーっっと広がる地平線。
眼下に広がる大雲海。
海の向こうから太陽が顔を出してくる日の出。
空を真っ赤に染める夕焼け。
これでもかというほど花が咲き乱れる草原。

これらって、もう素晴らしいじゃないですか。

でも、なんで素晴らしいのか?って聞かれちゃうと、
そりゃわからん!でも素晴らしい!

って感じですよねー。

大自然の素晴らしさって、ひとつは人の手が加わっていない。
というものもあるのかもしれません。
それって、意図がないという事かもしれません。

意図がないというのが素晴らしいっちゅう事やねー。

つまり、素晴らしい!っていうのには、かならずしも条件は必要ないという事ですね。

ある条件をベースとした良い悪いというのは、その条件を共有しなきゃ始まりませんが、一切の条件を取り除けば、それはそれで素晴らしいんですよねん。

つまり素晴らしさには、条件は不要やという事です。

ということは、条件がない最初の元々は素晴らしかった!という事にもなります。

僕らから条件をとりのぞいた本来の姿は「素晴らしさ」やという事ですね。

じゃあ、素晴らしくないということは本来から外れておるっちゅうことになります。
何が本来から外れる原因となっとるのか?というとそれは後付けされた条件という事になりますね。

後付けされた条件とは、ある種のルールのようなものです。

 

素晴らしくなるには、その条件のもとで良いを目指すというのもあれば、
条件を変えちゃうというのもありますが、
条件が変わるたびに右往左往しなきゃならなくなります。

でも、それが単なる条件、ある種のルールに過ぎないということが見抜かれちゃうと、もうそれはおままごとルールとなんら変わらないんじゃん。
ってことも見抜かれちゃいます。

条件のもとであれこれ思ったりすることはあるものの、
ああ、どうやっても素晴らしいんじゃん♪ってなことも同時に明らかになっちゃうんですよねん。

無条件の愛、無条件の「それ」とはそのものの素晴らしさです。
意味も条件も必要なければ、意味や条件ってある種の幻想の様なものでしかないんですよねん。

デフォルトは素晴らしさです。
その素晴らしさのなかで分離が生み出され、
分離と同時に足りなさを生み出します。

でもその分離も素晴らしさの一部であり、
足りなさも素晴らしさの一部なんです。

この素晴らしさのなかで分離が起こっていても、
実際に分離されるようなものはありません。

全ては分割できるようなもんじゃないんです。

それは、平原と森との間に境界線がないのと似ています。
空を分割することもできませんし、天気を分けることすらできませんよね。

観念上で分割してるだけで
その分割が足りなさを生み出しているだけで、
それそのものの全体はすでに素晴らしさとしてここにあるんです。

自然に触れたり、何かの拍子で素晴らしさに包まれるのは、
その自然に圧倒されて、分離の観念を置いてけぼりにしちゃうからなのかもしれませんね。

分離の観念を置いておくと、そこに残るのが素晴らしさです。
意味も理由も必要としない無条件で無防備なそれそのものなんです。

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