Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

非二元話は役立たずです。でもって、役に振り回されんでええやんけ!ということでもあります。

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ちょいまてーい!

人として生きていたら、どうやったって嫌なことも起こるやろし、怖いこともあるやろう?

「全てが完璧。すでに愛に満ちている。」

っていうのであれば、
なんでアタシは振られるんやー!
愛してもらえへんのんやー!

ゆうてね。

ちょいまてーい!な事って結構起こると思うんですよね。

その度に、
あれ?
なんだかんだで、非二元という話にたどり着いたけど、
これも、もしかして、ちょっと間違ってるんじゃ無いのん?
もしかしたら、まだ自分が何かを見逃しているだけ?

なんてねー。
思ったりすることがあるかもしれません。

 

これもねー。
多分、なにかしらを取っておこう。持っておこう。
そして、自分が何者かになろう。
っていうねー。
完全な自分になれば全て解決!っていう誤解がベースにあって、その誤解を持ったまま、
非二元なりなんなりの話を掴んで、この自分というまな板の上に引っ張り出してやろう。
っていうところから現れとる疑問やと思うんですよね。
これで完璧!と思えるありとあらゆる観念をもってきても、結局思い通りになるような観念はいつまでたっても見つからないもんですから、完璧さへの探求はいつまでたっても終わらないってなことにもなったりするんですよねん。

物語ってね。
やっぱりその物語の中心っていうのが絶対に不可欠なんです。
そして、その中心から展開していくわけですので、
最初にやっぱり中心となるなにかしらの拠り所を必要とします。

その中心となる拠り所を、より良いもの、より完璧なものにしていきたいので、新しい拠り所探しっていうのが尽きないんですよねー。

その拠り所探しっていうのが探求やというわけです。

でもって、探求の終わりっていうのは、中心っていうのは無いねん。
展開されとるのは、でっち上げられた中心から展開しとる物語のようなもんですねん。っていう見抜きであって、
これが見抜かれれば見抜かれるほどに、
中心のなさを突きつけられ、もうどこにも拠り所というのは無いんやで!ということも突きつけられて、降参するしかないっちゅうことでもあります。

するとね。拠り所に安心を求めてたという事が明らかになるわけでして、安心を求めてた事が同時に不安を呼んでおったということも明らかになるわけですね。

それが打ち消しあうと、
残るのは安心ということになるんです。
不安の不在とも言えるかもしれませんね。

安心か不安か?といった二者択一の消滅とも言えますし、
そもそも、安心とか不安っていうのは最初からなかったという発見でもあります。

結局ね。
この話って、
心の想念っちゅうもんに振り回されなくてもええんやでー。
そういうもんに支配されなくてもええんやでー。
っちゅう話なんです。

だから想念の中の問題を解決すべく役立てる話じゃないんですよね。

想念は実体はないのでなんぼでも出てくるでしょうし、
それはそれで出て来させておったらええんですけどね。

もし、その想念の声にしんどくなっとるんやとしたら、
それは、もしかしたら、その想念の声をちゃんと聞いて解決してやらにゃならない。
その想念に付き合ってあげなきゃならない。
っていう誤解が根っこにあるんかもしれへんでー。

ぶっちゃけそれって、想念の支配下に置かれとるっちゅうことでもあるわけですが、
そもそも単なるイメージでしかないその想念に支配されることなんてあらへんのやでぇぇぇ〜!

っていう一つの提案なのでございます。

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