Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」って自分にとってはクソ退屈で、クソしょうもないことかも知れません。

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そんな理論じゃ満足できへんぞー!
なんか面白くないぞー!
気分が高揚せいへんぞー!
もっとワクワクさせてくれへんとなぁー!

なーんていうか、非二元話を聞いてそんな風に思うこともあるかも知れません。

だって、
「何もないって何やねん!」
ってなりますもんねぇ。

でも、もしね。
それがなんていうかすんごいもの。
神のようなものだったり、
大宇宙だったり、
神秘中の神秘だったとして、

しかもそれが、最初っからあって、
でもって、それを実は自分が忘れてるだけって、、、

んなスゴイもんやったら忘れてへんわい!

ちゅうことなんですよね。

 

なぜ見過ごされてるのか?
なんで忘れられてるのか?

と言いますと、
「それ」とは、自分にとってクッソ退屈なものやからなんです。

瞑想とか座禅とかってね。
そもそもがクソ退屈やないですか。
もしかしたら怒られるかも知れませんけど、
あれ、
退屈を馴染ます練習をしとるんとちゃうやろか?って思うんですよね。

で、退屈やと心がいろんなビジョンを見せてくれることもあったりするんですけど、
そういった素敵なビジョンの中に「それ」が隠れてるわけでもないんですよね。

なので、素敵なビジョンを見たとしても、
思いっきりスルーしたったらいいんですよねー。

あ、こんな感じのことなのかな?
と思ったのなら、こんな感じも思いっきりスルーしたったらええんです。

神秘の中にも教えの中にも「それ」はありませんのでね。

あらゆる教え、あらゆるビジョン、
あらゆる見てきたことや聞いたこと。

そういったあらゆるものを杖として持たずに、

どこかに中心点を置くこともなく、

手放しでダイブするんです。

手を放すのはとても怖く感じるかも知れませんが、
放してみると、リラックスってこういうことやん!ってなるかも知れません。

多分、いろんな人が「それ」とは想像できるようなものじゃなく、
想像すらしたことがない事だってゆうてると思うんです。

それは、想像できるようなとっかかりがないからなんですよねん。

手がかりも材料も無いんです。

そして、そういうとっかかりみたいなもんが無いっていうのが許されとるんです。
許されとることを知るんですよね。

何かしらのとっかかりは絶対に必要やろ!と思い込んでたことが、
単なる観念を採用しとっただけやったんやね。
って言うことを単に知るんです。

すると、とっかかりのなさを、あまりに退屈なために見過ごしていたことが気づかれるんです。
誰でも無い者にね。

誰でも無いものがなんで気づくんだよ!
って思うかも知れませんが、
気づくのに、なんで誰かが必要やと思ってたんや!
そんなもんいらんし、必要なかったんやんけ!

ってことも明らかになるんです。

主体と客体というのも一つの作られた観念に過ぎなかったんです。

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